大嘗祭
だいじょうさい
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ジャンル |
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頻度 |
天皇即位後、最初の新嘗祭
一世一度・即位大嘗祭 |
会場 |
大嘗宮(主基殿・悠紀殿・廻立殿) |
会場所在地 |
皇居(時代により変化) |
開催国 |
日本 |
初回開催 |
農耕祭祀に根差しており、原形は弥生時代ごろ見られ、現在の規模・様式になったのは天武・持統朝(7世紀)ごろ |
前回 |
<第125代天皇 明仁>
1990年(平成2年)11月22日・23日 |
次回 |
<第126代天皇 徳仁>
2019年(令和元年)11月14日・15日 |
参加者 |
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来場者数 |
総勢約730名 |
活動 |
即位した天皇が、悠基国・主基国から献上された新穀を神々に供え、自らもそれを食し、五穀豊穣と国家・国民の安寧を祈願する神道による儀式。 |
後援 |
日本国政府 |
主催 |
宮内庁 |
ウェブサイト |
宮内庁 |
大嘗祭(だいじょうさい、おおにえまつり、おおなめまつり)は、日本の天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀であり、皇室行事。
新天皇が即位の後に新穀を神々に供え、自身もそれを食する。その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念することである。
古くは「おほにへまつり」「おほなめまつり」とも訓じた[2]が、現代においては「だいじょうさい」と音読みするのが公式である[3]。
一般に、毎年11月23日に行われる宮中祭祀の新嘗祭と同じく、収穫感謝の秋祭りと解されている。実際、祭儀の次第にも共通点があり、大嘗祭が行われる年には新嘗祭は斎行されない。また、大宝律令以前においては「大嘗祭」と「新嘗祭」は同一祭儀の別名であった。
かつては、折口信夫の唱えた「真床覆衾」論、つまり日本神話における天孫降臨の場面を再現することによって「天皇霊」を新帝が身につける神事であるとする仮説が支持され、その発展ないしは修正の形で研究が展開されていった。1983年に岡田精司が聖婚儀礼説を唱えてこれを鋭く批判し、日本史学界で一定の支持を集めた。
しかし1989年から1990年にかけて、岡田荘司が「真床覆衾」論も聖婚儀礼説も否定する論考を発表した。岡田荘司説によると、大嘗祭とは新帝が天照大神を初めて迎え、神膳供進と共食儀礼を中心とする素朴な祭祀である。天照大神の神威を高めることにより天皇がその神威を享受するという見解であり、折口以前の通説、さらには一条兼良などの中世公卿の見解とも一致する。のちに西本昌弘により『内裏式』新出逸文が紹介され、その検討が加えられた結果、もはや日本史学界では「真床覆衾」論も聖婚儀礼説もほぼ完全に否定されている。
大嘗祭(=新嘗祭)の儀式の形が定まったのは、7世紀の皇極天皇の頃だが、この頃はまだ通例の大嘗祭(=新嘗祭)と践祚大嘗祭の区別はなかった。通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めである。ただし当時はまだ即位と結びついた一世一度のものではなく、在位中に何度か挙行された。[8] 律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備された。『延喜式』に定められたもののうち「大祀」とされたのは大嘗祭のみである。また、大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には3日間にわたる節会が行われていたことに由来している[9]。また後には通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを「毎年の大嘗」、践祚大嘗祭を「毎世の大嘗」と呼び分けることもあった。元来、記紀では大嘗・新嘗は、「祭」とも「会」とも称されていない。単に「大嘗」、「新嘗」とだけ記されている。奈良時代になると、「大嘗会」「新嘗会」と称されるようになり、平安時代となると、公式の記録では「大嘗祭」「新嘗祭」とされたが、日記類ではほとんどが「大嘗会」「新嘗会」である。この経緯から大嘗・新嘗を構成する重要な要素の一つが「会」にあったことが分かる。[10]
延喜式に式次第が定められた後も、多少変化した。大嘗宮を建てる場所も、奈良時代より平安時代初期の平城天皇の御代から、大内裏の南中央に位置した朝堂院の前庭にあった竜尾壇の庭が用いられた。平安時代末期に朝堂院が焼亡してからは、安徳天皇の寿永元年(1182年)の大嘗祭のように内裏の紫宸殿の前庭を用いる例もあったが、おおよそ大極殿の旧地の龍尾壇下に建てられた。東山天皇の再興時には、大極殿址も明らかでなかったためか、安徳天皇の先例に倣って紫宸殿の前庭が用いられ、明治に至った。明治4年(1871年)の大嘗祭は、初めて東京の吹上御所で行われ、大正・昭和の時は「登極令」に拠って京都の大宮御所内の旧仙洞御所の御苑が用いられた[11]。室町時代末期、戦国時代には、朝廷の窮乏や戦乱のため、延期または後土御門天皇の即位以降、東山天皇の時代の再興まで221年間行われなかったことなどもある[12]ものの、天皇の代替わりに伴う重要な祭儀として、古くから継承されてきた。もっとも、江戸時代の再興の際には古式に則って、仏教僧尼の御所への出入りを禁じて歴代天皇の位牌を撤去すべきとした霊元上皇や摂政一条冬経(兼輝)と、これに反対した上皇の実兄堯恕法親王や左大臣近衛基熈らが対立した。この仏教排除の動きは新天皇の大嘗祭が開かれる度に国学や尊王論の高まりと相まって強化され、それが宮中に長く定着していた神仏習合の慣習に対する批判および排仏論やこれに付随する即位灌頂の是非の論議にも発展して、明治における宮中の神仏分離の遠因となったとする見方もある[13]。
室町時代の一条経嗣による『応永大嘗会記』では「国の大事は大嘗会也、大嘗会の大事は神膳に過ぎたることなし」と記され、『永和大嘗会記』でも天皇と陪膳の采女以外に、神殿(大嘗宮)に入ることはないと[14]記されるが、堀河天皇以降安徳天皇、後鳥羽天皇に至るまで2歳から7歳の幼帝が続いた時代背景から、大江匡房の『江家次第』には、「二行」と「五出」の表記が見られ[15]、『延慶大嘗会記』や『応永大嘗会記』に記されるように時の天皇が10歳以上(元服した成人)の場合は天皇御自ら御供進される「二行」に、9歳以下の場合は摂政が「五出」に供したと考えられる。[16]又、大嘗祭を数日後に控えて、神饌御進儀の習礼(本祭に先立つ予行)が行われる。[17]
即位礼に関わる儀式が国の行事とされたのに対し、大嘗祭に関わる儀式は皇室の行事とされた。しばしば誤解されているが、ここで「皇室の行事」というのは、「皇室の私的な行事」という意味ではなく、「皇室の公的な行事」という意味である。大嘗祭の予算は通常の内廷費以外の臨時のものが組まれている。当時の政府発表(最終回答)によれば、大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、日本国憲法上の天皇の「国事行為」とは「内閣の助言と承認」を必要とするものであり、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は「国事行為」に当たらないためである。
太陽太陰暦が用いられていたころは、11月の二の卯の日に行われていた(新嘗祭も同様)。明治6年(1873年)にグレゴリオ暦を採用して以降は新暦の11月に行うようになり[注釈 1]、大正以降の大嘗祭はそれぞれ新暦の11月14日、14日、22日、14日に行われている。
大嘗宮[編集]
大嘗祭を行う祭祀の場所を大嘗宮という。これは大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼される。
古来、造営場所は朝堂院の前庭であった。祭の約10日前に材木と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び[18]、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えで5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に竣工していた。後に大嘗宮の規模は大正、昭和の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるためといった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数カ月かけて造営している。
童女が火を鑽出して国司や郡司の子弟の持つ松明に移し、その8人童男童女が松明を掲げて斎場に立ち、工人が東西21丈4尺(約65メートル)、南北15丈(約46メートル)を測って宮地とし、之を中に分け東に悠紀院、西に主基院とする[21]。そして両国の童女が木綿をつけた榊を捧げ、両院が立つ四隅と門の場所の柱の穴に立て「斎鍬」(いみくわ)で8度穿つ[22]。東西に悠紀殿・主基殿、北に廻立殿を設け[23]、それぞれの正殿は黒木造 (皮つき柱) 掘立柱、切妻造妻入り、青草茅葺きの屋根、8本の鰹木と千木[24]、むしろが張られた[25]天井を有する[26]。外を柴垣で囲み、四方に小門をつける[23]。
各社殿は以下の通りである。
- 悠紀殿
- 主基殿
- 大嘗宮の中心をなす殿舎。「悠紀殿の儀」「主基殿の儀」と、同様の祭祀を2度繰り返して行う。
- 殿内には中央に八重畳を重ねて敷き、その上に御衾(おんふすま)をかけ、御単(おんひとえ)を奉安し、御櫛、御檜扇を入れた打払筥を置く(寝座)。その東隣に御座がおかれ、伊勢神宮の方向を向いている。御座と向かい合って神の食薦(けこも)を敷き、事実上の「神座」として扱われる。
- 黒木造、切妻屋根、茅葺き、畳表張り、千木は悠紀殿が内削ぎ、主基殿が外削ぎ。
- 廻立殿
- 悠紀殿、主基殿の北側に設けられており、祭祀に先立ち、天皇が沐浴を行う。殿内は東西二間に仕切られており、西の部分を「御所」、東の部分を「御湯殿」と呼ぶ。大正以降は皇后も祭祀に列するようになったため三間に仕切るようになり、中央の部分が御所、西の部分が御湯殿となり、東の部分では皇后が斎服を着用する場となった。
- 黒木造、切妻屋根、茅葺き。床は竹簀と蓆。
- 頓宮
廻立殿のさらに北側に設けられており、天皇はまずここに入り、そこから廊下を通り廻立殿に入る。
- 帳殿
- 悠紀殿、主基殿の外陣のそばにあり、祭祀の間、皇后が控える。
- 切妻屋根、板葺き
- 小忌幄舎
- 祭祀の間、皇族が控える。
- 切妻屋根、板葺き
- 膳屋
- 切妻屋根、板葺き
- 風俗歌国栖古風幄
- 切妻屋根、板葺き
- 斎庫
- 切妻屋根、板葺き
- 建設中の「令和の大嘗宮」 - 2019年10月9日現在の工事状況
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大嘗宮の全体模型、奥「主基殿(すきでん)」手前「悠紀殿(ゆきでん)」右側「廻立殿(かいりゅうでん)」
- 新穀
大嘗祭において供される神饌の内、稲については特に重要視される。稲を収穫する田を「斎田」といい、大嘗祭はこれを選定するところから始まる。
大嘗祭の祭祀は同じ所作の物が2度繰り返されることから、斎田も2か所あり、それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)と呼称される。この語源は、「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。
悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東から、主基は西から選ばれるのを原則とし、畿内の国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国(現在の京都府、奈良県及び大阪府))から選ばれたことは一度もなかった[注釈 2]。宇多天皇以降は近江国が悠紀、丹波国と備中国(冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。明治以降は全国から選出されるようになった。平成以降は斎行場所が東京になったため東西の境界線に変更が加えられ、悠紀国は新潟、長野、静岡を含む東側の18都道県、主基国は西側の29府県となった。
斎田は、亀卜を用いて決定される(斎田点定の儀)。神殿にて掌典職が拝礼したあとに前庭に設営された斎舎にて斎行され、これにより都道府県が決定される。平成においては、亀甲の入手が国際条約や都道府県条例により入手困難になったため手法の変更も検討されたが、剥して年月を経たものは抵触しないことから、国産のアオウミガメを入手して行われた。
旧来は国・郡が決められた後現地で具体的に斎田を早急に決め、防護、警備にあたっていたが[注釈 3]、平成以降は都道府県のみ速やかに発表され、斎田については収穫の直前になって初めて公表されるようになった。斎田の持ち主は大田主と呼ばれ、奉耕者として関連する祭祀に列席する。
- 明治以降の悠紀・主基
旧来は8月下旬、抜穂使を両斎国に遣わし、斎田と斎場雑色人、造酒童女、物部人、物部女らを卜定、斎田に面した斎場に殿舎を建てていた。
ここで設けられたのは神殿、神饌殿、稲実殿であり、この神殿の祭神は延喜式で「御歳神(みとしのかみ)、高御魂神(たかみむすびのかみ)、庭高日神(にわたかびのかみ)、大御食神(おおみけつかみ)、大宮売神(おおみやめかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)、波比伎神(はびきのかみ)」(祭神八座)と定められている。平成以降は斎田の決定が収穫の直前になったため、殿舎は天幕張りとせざるを得なかった。
収穫前日、斎田の近くの河原において、斎田抜穂前一日大祓が行われる。抜穂使の随員が大祓の詞を読み、参列者を祓う。
その翌日(9月の内の吉日)、斎田抜穂の儀を執り行う。祭神の降神に次いで抜穂使が祝詞を奏上し、その命を受けた大田主以下奉耕者が順番に斎田で稲穂を抜き取る。稲穂は抜穂使の見分を経て稲実殿に収められる。初めに抜いた4束をとくに高萱御倉に納め、御飯(みい)とする。あとは黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供される。
これらの米は9月下旬、大嘗宮斎庫に納められる(悠紀主基両地方新穀供納)。この殿舎を建てるに際しては、まず地鎮祭が行われ、野の神を祭って萱を刈り取り、山の神を祭って料材を伐採する。抜穂が終わると八神殿において祭典がなされる[54]。
- 精粟
悠紀国、主基国からそれぞれ供納されており、量はそれぞれ7.5キログラムである。
- 庭積(にわづみ)の机代物(つくえしろもの)
明治の大嘗祭で鳥、魚、介、海菜、野菜、果物等が供納されたのを初例とする。明治25年(1892年)に新嘗祭で各地からの産物の供納を受けるようになると大嘗祭においてもこれらの例に準ずるようになり、大正、昭和の大嘗祭では全道府県および外地の台湾、樺太、朝鮮から米1升、粟5合と特産の蔬果魚介を購入した。平成以降は米、粟に加え[注釈 4]、各地の名産品を最大5品目まで供納(宮内庁が購入)するようになった。これらの品は、東日本の物は悠紀殿、西日本の物は主基殿の前の庭の机に置かれ、平成の大嘗祭までは「神事に使ったものは埋めて自然に戻す」などとして終了後にすべて埋納していたが、令和の大嘗祭では食品ロスの問題を踏まえて食品として有効活用することが検討されている[57]。
このほか、御贄(米以外の食物。「由加物」と称す)が紀伊国や阿波国から納められる。
神饌(名称、読み)[編集]
- 削木 けずりぎ
- 海老鰭盥槽 えびのはたふね
- 多志良加 たしらか
- 御刀子筥 おんかたなばこ
- 御巾子筥 おんたなごいばこ
- 神食薦 かみのすごも
- 御食薦 みすごも
- 御箸筥 おんはしばこ
- 御枚手筥 おんひらてばこ
- 御飯筥 おものばこ
- 鮮物筥 なまものばこ
- 干物筥 からものばこ
- 御菓子筥 おんくだものばこ
- 蚫汁漬 あわびのしる
- 海藻汁漬 めのしる
- 空盞 こうさん
- 御羹八足机 おんあつものはっそくづくえ
- 御酒八足机 みきはっそくづくえ
- 御粥八足机 おかゆはっそくづくえ
- 御直会八足机 おんなおらいはっそくづくえ
祭服と神具[編集]
天皇の祭服は純白生織(すずし)の絹地で奉製されており、これは最も清浄な服である。また、御冠は幘(さく)の御冠[注釈 5]、御石帯(おんせきたい)、御下襲(おんしたがさね)の裾(きよ)も用いての束帯である。
皇后の祭服は、白色帛御五衣(はくしょくはくのおんいつつぎぬ)、同御唐衣(おんからぎぬ)、同御裳(おんも)である。
掌典は、黒袍(くろほう)、束帯の上に小忌衣(おみごろも)をつけ、冠に日蔭蔓(ひかげのかつら)をつける。
采女は、白色帛畫衣(はくしょくはくのえぎぬ)、唐衣、紅切袴をつけ、その上に襅(ちはや)をつけ、髪に心葉(こころは)、日蔭糸をかける。
これとは別に、神座に奉安する斎服もある。
- 繪服(にぎたえ)
- 絹製。古来三河国より供進されており、大正の大嘗祭以降は愛知県北設楽郡稲武町において、絹糸業者が謹製した。
- 麁服(あらたえ)
- 麻製。古来阿波国より供進されていたが、平成の大嘗祭時には麻の栽培が全国的に廃れており、徳島県内では全く生産されていなかった。しかし古来の記録や畑は現存していたため、群馬県の現役の麻農家を招いて謹製した。
これらを収める細籠も延喜式に明記されており、謹製される。
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脂燭(ししょく)
上:侍従用
下:神饌行立神饌行立用
式次第[編集]
明治以降の「即位の礼・大嘗祭」関連儀式の具体的な日程等については、即位の礼の項目を参照のこと。以下、特記がない場合は主な骨格が定まった『延喜式』の記述に従い、それ以降の変更(特に、明治以降の物)については追加して記載する。
本祭前[編集]
8月上旬には、大祓使(おおはらえし)を卜定し、左京・右京に1人、五畿内に1人、七道に各1人を差し遣わして祓い、8月下旬にはさらに祓使を差し遣わして祓った。この祓いが済むと、伊勢神宮以下、各国の天神地祇に幣帛を供え、告文(こうもん)を奏じた。
10月下旬、天皇が鴨川に臨んで御禊(ぎょけい)する。この御禊は、江戸時代中期以降になると皇居内の清涼殿で、大正、昭和時には京都御所の小御所で、平成の大嘗祭においては宮殿「竹の間」行われた。
11月いっぱいは散斎(あらいみ。簡略な物忌。)、本祭の2日前から当日までの3日間は致斎(まいみ。厳重な物忌。)とされ、穢れに触れることを戒めた。悠紀・主基の斎場を設け、それぞれに神供、神酒、調度などを調理製作する諸屋を建てた。竣工すると宮殿に災害がないように祈る大殿祭と、邪神を払うための御門祭が執り行われた。
本祭前日、鎮魂祭を行う。これは、天皇の霊魂が身体から遊離しないように鎮める祭であり、神楽の奉納が行われる。
当日、巳刻(10時)に仮屋から5000人の行列が大嘗宮へ向かい、御贄などが運び込まれる。行列は未刻(14時)に参入し、米が炊かれる。神門に衛門が着いたあと、掌典職により悠紀主基両殿の設営が行われる(神座奉安)。
戌刻(20時)、天皇は内裏を出て廻立殿に渡御し、殿内の御湯殿で沐浴を行う(廻立殿の儀)。これを「小忌の御湯」といい、天皇は帷(とばり)を着用したまま湯に入り、帷を脱ぎ捨てて上がり、他の帷を羽織って肌を拭う。次に「お河薬」を供し[注釈 6]、御間で斎服を身に着ける。昭和以降はこれと前後して皇后も廻立殿に入り、祭服を身に着ける。
廻立殿の儀と同時刻、膳屋において稲舂(いなつき)がなされる。采女が臼と杵で粟を舂き、その間宮内庁式部職の楽師によって稲舂歌[注釈 7](短歌)が奉唱される。なお、これはあくまで祭祀の一環であり、実際に供される粟の脱穀はすでに済んでいる。さらにこれと前後して、庭積の机代物が置かれ、悠紀殿/主基殿で掌典長が祝詞を奏上する。
戌四刻(21時)、天皇が廻立殿から悠紀殿へ渡御する。この際、菅笠をさしかえられ、脂燭で足元が照らされる。天皇が通る通路(「雨儀の廊下」)は板張りの上に布単(ふたん)を敷き、さらに葉薦(はごま)を重ねて敷いているが、天皇が通る時のみ敷かれる真薦(まこも)がカーペット状に巻かれた状態で準備されており、天皇が通る直前で侍従2名がこれを広げ、三種の神器の内八尺瓊勾玉と天叢雲剣をそれぞれ奉持した侍従、天皇、天皇の祭服を持つ侍従が通り過ぎるとあとの侍従2名が直ちにそれを巻き上げる。この天皇が通る時のみ現れる道を「御筵道」(ごえんどう)と呼ぶ。天皇は悠紀殿の外陣に着御し、剣璽はその上座の案上に奉安される。これに付き従った皇太子以下男性皇族は小忌幄舎に入る。
続いて皇后および女性皇族が進み、皇后は帳殿、女性皇族は殿外小忌幄舎に入る。なお、女性皇族の列席は大正より始まっており、両社殿もこれに際して新しく設けられた。
同時に諸員が参入する。その順序は、次の通りとなっている。なお、平成以降は廻立殿の儀の頃に参列者全員が参入しており、天皇の渡御の際に総員起立でこれを遙拝する。
- 宮内省官員が、吉野の国栖12人、楢の笛工12人を率いて参入。
- 悠紀国/主基国の国司が歌人を率いて参入[注釈 8]。
- 伴・佐伯の宿禰、語部15人を率いて参入。
- 皇太子、親王、大臣以下、六位以下、それぞれ参入。この時、隼人は犬声を発する[注釈 9]。
参入後、それぞれ行事を行う。
- 応神天皇19年(288年)、天皇の吉野行幸に際して奉納して以来、国栖の民が産物献上と古風の奉納をたびたび行っており、その縁故によるもの。平成以降は、宮内庁楽部が奏している。
- それぞれの地方独特の歌詞をもって歌ったもので、国つ神からの寿歌である。平成以降は、宮内庁楽部が奏している。
- 各地の国造からの寿詞。国造は古くは国魂神の体現者であったことから、国魂神による寿詞とみることが出来る。平成以降は、行われていない。
- 隼人は山幸海幸神話にさかのぼる古い部族であることから、古層の文化を再現しているといえる。平成以降は、行われていない。
- 皇太子以下五位以上、八開手の拝。次いで六位以下が行う。大正以降は女性皇族も列席しており、まず初めに皇后が拝礼するが、諸員の拝礼後、皇后、女性皇族は廻立殿へ還御する。
亥一刻(21時30分)、神饌行立が行われる。これは、天皇自ら神に献じる神饌が采女らの手によって悠紀殿へ向かうことである。
- 掌典補2人が脂燭を執る。
- 掌典が削木を執る。
- 掌典が海老鰭盥槽を執る。
- 掌典が多志良加を執る。
- 陪膳采女が御刀子筥を執る。
- 後取(しんどり)采女が御巾子筥を執る。
- 采女が神食薦(かみすごも)を執る。これは神座の前に敷かれる。
- 采女が御食薦(みすごも)を執る。これは天皇の御座の前に敷かれる。
- 采女が御箸筥(おはしばこ)を執る。これは竹製の箸である。
- 采女が御枚手筥(おんひらてばこ)を執る。これは檞(かしわ)の葉で製した[79]ものである。
- 采女が御飯筥(おものばこ)を執る。これは切り火でおこした火で蒸した米御飯と粟御飯である。
- 采女が鮮物筥(なまものばこ)を執る。これは甘塩鯛である。
- 采女が干物筥(からものばこ)を執る。これは干鯛である。
- 采女が御菓子筥(おんこのみばこ)を執る。これは干柿などである。
- 掌典が蚫汁漬を執る。
- 掌典が海藻汁漬を執る。
- 掌典補2人が空盞(さかずき)を執る。
- 掌典補2人が御羹八足机を舁く(持ち上げる)。
- 掌典補2人が御酒八足机を舁く。
- 掌典補2人が御粥八足机を舁く。
- 掌典補2人が御直会八足机を舁く。
削木を執る掌典が悠紀殿の前まで進んだ時、警蹕を唱える。これは、神饌そのものが神として扱われていることを意味する。天皇は警蹕の声を合図に内陣へ入り、御座に着御する。また、神楽が流れ始め、これは天皇の還御まで途切れることなく続く。神饌が悠紀殿に渡御すると、掌典長、掌典次長、侍従長、采女が外陣、陪膳采女と後取采女が内陣に参入する。両采女の奉仕により神食薦を神座の前に、御食薦を天皇の御座の前にそれぞれ敷き、御食薦の上に伝えられてきた筥を並べ、蓋を取る。
天皇は神饌が用意されると、自ら箸を取り、古来の法で、規定の数だけ枚手に盛り供する(親供)。これに1時間20分ほどかかる。親供が終わると、御告文を奏する。この時、総員起立する。それを終えると、天皇自ら神饌を聞し召す。
采女が奉仕して神饌を撤下する[注釈 10]。手水を使い、采女らが下がった後、天皇は廻立殿に還御する。その際の列も、渡御の時と同じである。最後に参列者が退出する。この時点で深夜0時頃になる。
次いで翌辰日の丑刻(2時)から寅4剋(5時)にかけて、主基殿において全く同じ祭礼が繰り返される。天皇はその晩は内裏に戻らず、大極殿で翌朝まで待機する。なお、神座は全ての儀礼が終わってのち、撤去される。
本祭後[編集]
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風俗舞装束(悠紀地方用)
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風俗舞装束(主基地方用)
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明けて辰、巳、午の3日にわたり、節会が行われる。豊楽院にはあらかじめ、悠紀帳および主基帳が装飾される。
辰日の辰刻(8時)、天皇が悠紀帳へ出御する。神祇伯の中臣氏が寿詞を奏上し(中臣寿詞、あるいは天神寿詞)、忌部氏が三種の神器の内八咫鏡と天叢雲剣を献ずる[注釈 11]。次に弁官が両国の献る供御の物および多米都物(ためつもの)[注釈 12]の式目を奏上する。次いで皇太子以下が八開手の拝をして一旦退出する。
次いで9時より饗宴が始まる。その順序は以下の通りである。
- 御膳を供する。
- 五位以上に饌を給う。
- 弁官が両国の多米都物を諸司に班給する。
- 悠紀国の鮮味を献る(一献)。
- 悠紀国の風俗舞を奏する(ニ献)。
- 雅楽寮が楽を奏する。
- 御挿頭(かざし)・和琴を献る(三献)。
ここで天皇は一旦還御し、次いで主基帳に出御する。主基帳でも同様の饗宴が行われるが、ここでは主基の風俗歌舞が奏される(一献、二献)。最後に悠紀国の国司以下が禄を賜る。
翌巳日、再び両帳で饗宴が行われるが、両帳の内容が前日と丁度入れ替えて行われる。すなわち、悠紀帳では風俗舞(一献)と和舞(二献)が奏され、主基帳では主基国の鮮味が献られた後風俗舞を奏し(一献)、田舞を奏し(二献)、御挿頭・和琴を献る(三献)。最後に主基国の国司以下が禄を賜る。この二日間の節会をそれぞれ「悠紀節会」、「主基節会」と表現される。これらはいずれも、天皇が悠紀国・主基国の産品を食し、その地の芸能にも触れることから、大嘗祭の後の直会の性格を含むものである。
午の日、豊明節会が行われる。五節舞が披露された後、功績者への叙位の宣命があり、饗宴となる。この饗宴が、本来の意味での「宴」であるといえる。
この3日の節会については、神社の祭礼の基本形式である
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という三部構成に基づいているとされる。すなわち、辰・巳の両日の節会は、悠紀・主基両国が中心となって開く宴に天皇の行幸を仰ぐ形がとられ、産品を供し、芸能を披露することが主眼で、直会の性格を持っている。一方午日の節会は、宴会を目的とするもので、ややくだけた形の饗宴である。
大正以降は、一括して「大饗の儀」として執り行われている。
神楽歌と御告文[編集]
神楽歌曲目[編集]
悠紀殿の儀、主基殿の儀ではいずれも御神楽を演奏する[93]。演奏は宮内庁式部職楽部が担当する。
- 悠紀殿の儀[94]
- 音取<ねとり>(笛、篳篥)
- 阿知女作法 <あじめさほう>(本歌、末歌、和琴のみ)
- 採物
- 韓神
- 主基殿の儀[95]
- 音取(笛、篳篥)
- 阿知女作法(本歌、末歌、和琴のみ)
- 小前<こさい>
- 早歌
- 朝倉
- 其駒
- 千歳(入御のとき)
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- 榊
- 榊葉の 香をかぐはしみ 覓めくれば 八十氏人ぞ 神垣の 御室の山の 榊葉は 神の御前に 茂り合ひに
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- 幣
- 幣帛は 我がにはあらず 天に坐す 豊岡姫の 幣帛に ならましものを 皇神の 御手に取られて なづさわるべき なづさわるべき
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- 閑韓神
- 三島木綿 肩に取り掛け 我れ韓神の 韓招きせんや 韓招き 八葉盤を 手に取り持ちて 我れ韓神の 韓招きせんや 韓招き
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- 早韓神
- 肩に取り掛け われ韓神の 韓招きせんや からおき 手に取り持ちて 我れ韓神の 韓招きせんや からおき
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- 薦枕
- 誰が贄人ぞ 鴫突き上る 網をきし 其の贄人ぞ 鴫突き上る 網をきし
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- 志都也
- 閑野の小菅 鎌もて苅らば 生ひんや 天なる雲雀 寄り来や雲雀 富草
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- 磯等
- 磯等が崎に 鯛釣る 海人も鯛釣る 我妹子が為と 鯛釣る 海人も鯛釣る
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- 篠波
- 篠波や 志賀の唐崎や 御稲舂く 女の佳ささや 其れもかも彼もかも 従姉妹せの 眞従姉妹せに 葦原田の 稲舂蟹のや 己さえ 嫁を得ずとてや 捧げては捧げや 捧げては捧げや 腕挙を
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- 早歌
- や 何れそも 停まり や 彼の崎 越えて や 深山の 小葛 や 繰れ繰れ 小葛--(揚拍子)--や 鷺の頸 取ろンど や いとはた 取ろンど や 皸踏むな 後なる子 や 我れも眼はあり前なる子 や 谷から行かば 尾から行かん や 尾から行かば 谷から行かん や 女子の才ば や 霜月師走の 垣壊 や 翻戸や檜張戸 や 檜張戸や翻戸
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- 朝倉
- 朝倉や 木の丸殿にや 吾が居れば 吾が居れば 名乗りをしつゝや 行くや誰
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- 其駒
- 其駒ぞや 我れに我れに 草乞ふ 草は取り飼はん 水は取り 草は取り飼はん
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- 千歳
- 千歳千歳 千歳や 千年の千歳や 萬歳萬歳 萬歳や 萬世の萬歳や 尚 千歳 尚 萬歳
御告文(先例)[編集]
現時点で史料によって確認できる大嘗祭の「御告文」は以下の通り[97]。
建曆二年十月廿五日丁酉御記曰、公家於悠紀・主基神殿可被祈請申詞、一昨日廿三日教申 之、此事最祕藏事也、代々此事不載諸家記、又無知人歟、殊祕藏爲事也、其詞云、 坐伊勢五十鈴河上天照大神、又天神地祇諸神明曰、朕因皇神之廣護、國中平安、年穀豐 稔、覆壽上下救濟諸民、仍奉供今年新所得新飯如此、又於朕躬攘除可犯諸災難於未萌、 不祥惡事遂莫犯來、又於高山深谷所々社々大海小川而記名厭祭者、皆盡銷滅而已、 是尤祕事也、朕字ハ只次第書樣也、實祈請時ハ可爲實名者也、
【書き下し案】
伊勢の五十鈴の河上に坐す天照大神、又天神地祇諸の神に明らけく曰さく、朕皇神の廣き護りに因り、國中平らけく安らけく、年穀豐かに稔り、上下を覆い壽ぎ、諸の民を救ひ濟さん、仍りて今年新たに得たる所の新飯を奉ること此の如し、又朕が躬に於て犯すべき諸の災難を未だ萌さざるに攘ひ除き、不祥惡事を遂に犯し來ること莫からん、又高き山深き谷所々の社々大海小川に名を記して厭ひ祭らん者、皆盡に銷し滅さんのみ、
次御祈請の事あり、〈此間采女ほとををきてまいるへし、〉其詞云、伊勢のいすゝの河かみにおハしますあまてる御神、あまつやしろくにつやしろのもろゝゝの神たちに申て申さく、われ諸神のひろきまもりによりて、國の中たひらかに、年穀ゆたかにして、たかきいやしきをおほひ、もろゝゝの民をすくはん、よりてことしあらたにえたる所の、にゐをものをたてまつる、又身の上におかすへきわさはひを、未萌にはらひの そきて、さりなハあしき事をかしき来たる事なからん、又たかき山ふかき谷所々名をしるして、ましなひまつらん物みなことゝゝくに、けちほろほさん事、これ天神地祇のあつきまもりをかうふりていたすへきもの也、
伊勢のいすすの河上に御座す天照大神、天つ屋しろ國つ社のもろものの神たちに申して申さく、昭仁諸神の広き守りによりて、國中たひらかに、年穀ゆたかにして、たかきいやしをおほひ、もろものの民をすくわむ、よりてことしあらたにゑたることろの、にゐたるところの、にゐおものをたてまつる、又てる仁か身の上におかすへきわさはひを、はらいのそきて、さりなはあしき事をかしきたる事なからん、又たかき山ふかき谷ところところ名をしるして、ましなゐまつらんものみなけちほろほさん事、これ天神國つやしろのあつき守りをかふむりていたすもの也、と恐み々々も申て申さく、
大嘗祭についての議論[編集]
憲法の政教分離原則との関係[編集]
キリスト教・仏教関係者を始めとする国民の一部に、大嘗祭への国費支出や大嘗祭への都道府県知事の参列が日本国憲法の政教分離原則の観点から違憲であるという意見がある[98][99]。この政教分離の観点から、いくつかの憲法訴訟が起こされているが、訴えは全て斥けられている。これらの原告敗訴は、国費支出が原告に不利益を与えないという判断や、知事が参列することが政教分離の目的効果基準に照らして政教分離に反しないという判断によるものである[100]。
1977年(昭和52年)7月に最高裁大法廷で下された判決によると、「憲法の政教分離規定は国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである。」とあり、政府はこれを理由の一つとして大嘗祭への国費支出を認めている[100]。
ただし、1995年(平成7年)の大阪高裁判例では「平成の大嘗祭が既に終了しており、原告に不利益を与えない」との主旨で原告の訴えを斥けながらも、傍論において大嘗祭について「憲法違反の疑いは一概に否定できない」と指摘したこともある[101]。
政府見解としては、戦後しばらくは当然のごとく神道形式で国費をもって行われるべきであるとされていたが、昭和54年(1979年)、真田秀夫内閣法制局長官は国会答弁において、従来の理解を何の合理的説明もなく変更し、「そういう即位の礼とか、大嘗祭なんというのはおそらく国事行為としても無理なのじゃないかと思うのですが…」と述べた[102]。
2018年12月10日、原告241名が天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定による明仁の退位と徳仁の即位に伴う「退位の礼」「即位の礼」「大嘗祭」などの実施が政教分離を定めた憲法の規定に違反するとして、国を相手取り国費支出の差し止めと損害賠償を求める訴えを東京地裁に提訴した[103]。
なお、平成の大嘗祭に際しては、造営中はテロ対策として皇居東御苑を全面休園とし、完成後は極めて堅牢な造りの大型防護テントで主要建物を覆い隠し、4か所に2500リットルの防火槽と消防ポンプの防火設備が置かれていた。対して令和の大嘗祭においては、「大嘗祭に国費を支出することへの理解を国民に深めてもらうため」との理由で、造営中も東御苑を休園せず、工事の模様を誰でも見られる状態にした[104]。
経費節減のための改変について[編集]
令和の大嘗祭において、大嘗宮の屋根が従来は茅葺きであったのを、コスト削減を理由として板葺きに改変がなされた[105]。また、膳屋など一部施設が「祭祀の本質にかかわらない限りで」という前提のもと、鉄筋コンクリート造りにされた。
式の形式について[編集]
2019年(令和元年)11月14・15日に行われる大嘗祭で、大嘗宮の建築費は19.7億円[106]。秋篠宮文仁親王は、新嘗祭が行われる施設である宮中の神嘉殿(しんかでん)を活用して費用を抑え、それを天皇家の私費で賄うという具体案を示していたことが報じられている[107]。
ギャラリー[編集]
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- 大嘗祭
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1990年(平成2年)に造営された、平成の大嘗宮(模型)
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1990年(平成2年)、明仁の大嘗祭に際して白色の五衣唐衣裳を纏う美智子
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昭和天皇の大礼記念切手に描かれた、祭礼が行われた大嘗宮
- ^ 旧暦のままでは新年の1月になる場合があり、新嘗祭に支障があるため。新嘗祭は、明治6年の新暦11月の卯の日であった11月23日に固定された。
- ^ ただし、天武天皇(悠紀:播磨国・主基:丹波国)、持統天皇(悠紀:播磨国・主基:因幡国)、文武天皇(悠紀:尾張国・主基:美濃国)、聖武天皇(悠紀:備前国・主基:播磨国)の時は東西の原則は当てはまっていない。(加茂正典『日本古代即位儀礼史の研究』(思文閣出版、1999年) ISBN 978-4-7842-0995-8 第1篇第2章及び第5篇第1章)
- ^ この斎田の選定を行う都合上、践祚が8月(旧暦)以降になる場合、大嘗祭は翌年に行われていた。
- ^ なお、粟については一部の県が供納できず、平成の大嘗祭では35都府県にとどまり、更に令和の大嘗祭は25都道府県にとどまった。(神社新報、令和元年10月21日付 p.5)
- ^ 白平絹で巾子(こじ)に纓(えい)を結びつけたもの。
- ^ 湯の花のようなもので、これを手に付けて流すことにより手水としたと思われる。
- ^ 悠紀国/主基国の地名を入れて詠まれた短歌に、それぞれの地域の謡を参考に作曲したもの。
- ^ a b 悠紀殿の儀に際しては悠紀国、主基殿の儀に際しては主基国のものをそれぞれ行う。
- ^ 犬の遠吠えの声。今日の能におけるシテの登場の際の掛け声に名残が残されている。
- ^ これらの撤下神饌は、埋納される。
- ^ 忌部氏の祖の太玉命は天孫降臨に随行した神とされ、その孫の天富命は神武天皇の即位の折に鏡剣を捧持して正殿に奉安したとされている。
- ^ 「タメ」は「田部」で、両国の田部の生産にかかる物の意であるとされる。
- ^ 『後鳥羽天皇宸記大嘗會卯日御陪膳儀』-伏見宮本
- ^ 『大嘗會神膳次第』-東山御文庫本
- ^ 『元文3年大嘗祭御笏紙』- 東山文庫本
参考文献[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]