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「3・1独立運動」の真実

  

31日、韓国ではいつも「31節」という記念日で式典をやり、大統領が演説をやることになっています。しかし、この「3・1節」って何のことだか知っていますか? 現在の韓国人は「191931日は日本の過酷な植民地支配に対抗して韓民族が立ち上がった日」と教えられています。しかし、これは事実と違います。今年の「31節」に文在寅大統領は「日本の官憲によって7500人の韓国人が殺害された」と言ったそうですが、よくもそういう嘘が平気で言えるなあ、と感心するばかりです。7500人? 一体、どこからそういう数字を引っ張り出してくるんでしょうね。

 当時、日本の領土である朝鮮の首都、京城(ソウル)で発行されていた日本語の「京城日報」という新聞があります。この新聞は国会図書館に行けば見られます。191931日の「京城日報」には「3・1独立運動」のことなど一行も書いてありません。この日の新聞は「李太王の薨去」の話題で持ちきりです。「李太王」とは李氏朝鮮王朝の王だった高宗のことです。もう退位した、かつての王が亡くなったのでその葬儀が31日に執り行われたのです。

 日本が韓国を併合する前、まだ大韓帝国が独立国だった時、高宗は王でした。しかし自分の父である大院君と自分の妻である閔妃が宮廷で権力争いを繰り広げ、高宗はその板挟みになってただ悩むだけでした。無力で優柔不断な王様でした。結局、「ハーグ密使事件」というものを起して伊藤博文の怒りを買い、退位しました。その高宗が亡くなったわけですが、新聞を読むと、この葬儀がいかに盛大に執り行われたか、がよく分かります。遺族である李王家の一族の顔写真も大きく出ています。李王家は日本の皇族と同じ扱いを受けています。記事の内容も亡き高宗を最大限、持ち上げています。驚くべきことに日本政府は既に退位した、かつての王の葬儀をまるで国葬のように執り行っていたのです。現代の韓国人に是非とも知ってもらいたい歴史の事実です。

 いわゆる「3・1独立運動」という言葉は戦後の韓国で捏造された言葉です。当時の新聞には「騒擾」とか「盲動」という言葉で表現されています。31日の葬儀が無事に終わったかと思われた矢先、民衆の一部が暴徒化して略奪、放火、交番に対する襲撃、巡査の殺害などがあった、と書いてあります。京城で始まった「騒擾」はやがて全国に飛び火します。地方でもかなりの被害があったようです。では、一体、誰がこの「騒擾」を起したのでしょうか? 新聞は何日かしたのち、首謀者について伝え始めています。それによると、「騒擾」は自然発生的に起きたのではなく、特定の人物によって主導されています。主導者の中心はかつての朝鮮では貴族階級だった「両班」と呼ばれた人たちです。知識人であり、特権階級だった人たちです。彼らは日本に併合され、特権を奪われたことに対して不満を持っていたのでしょう。

 首謀者の一人として「宋秉畯」の名前が挙げられています。宋秉畯は「一進会」の元リーダーで、一時は大臣までやった人物です。「一進会」は日本と韓国の対等な合邦を願って運動していた団体でした。日露戦争の時、日本の勝利を願って日本軍になんと! 25万円もの寄付をしたという団体です。しかし日本政府は「一進会」の内部の対立やあまりにも政治的に積極的すぎる点などから徐々に距離を置き始め、最終的には解散を命じました。日韓併合は「一進会」が望んだ対等な「合邦」ではなく「併合」でした。そのことが宋秉畯が「騒擾」に加わった動機だったでしょう。その他にも首謀者にキリスト教の宣教師がいたこと、ミッション系の学校の生徒が多く加わっていたことなどが新聞に書かれています。

 つまり「3・1独立運動」は一般の韓国人が起こしたものではなく、さまざまな動機を持った特定の主謀者がいたということです。イデオロギー的な背景もあったでしょう。しかし、今の韓国人にはそのような歴史的事実は教えられず、ただ日本の統治が過酷であったから、と分かりやすい嘘が教えられています。そのことの方がよほど問題ではないでしょうか。

 韓国人には、もっと自国の歴史を学んでほしいものです。

 


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Source: 愛国女性のつどい花時計

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