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アホ石破茂「独立国だった韓国を併合し朝鮮人の名字を変えたその歴史を認識すべき」無知丸出し

 

石破茂「独立国だった韓国を併合し、朝鮮人の名字を変えた。その歴史を認識すべき」・無知丸出し 早大生らを前に、未来の日本づくりについて思いを語る自民党の石破茂元幹事長=30日夜、東京都新宿区
石破茂「独立国だった韓国を併合し、名字を変えることが行われた。そういう歴史があったことをどれだけ認識するかだ」

来たる12月4日は、1909年に大韓帝国で最大の政治団体だった「一進会」が、「韓日合邦を要求する声明書」を韓国皇帝、韓国統監、韓国首相に送った日!
12月4日は、1909年に大韓帝国で最大の政治団体だった「一進会」が、「韓日合邦を要求する声明書」を韓国皇帝、韓国統監、韓国首相に送った日!

石破茂「独立国だった韓国を併合し、朝鮮人の名字を変えた。その歴史を認識すべき」!早稲田大学で無知丸出し!

https://www.sankei.com/politics/news/181130/plt1811300046-n1.html
自民・石破氏 日韓関係「併合した歴史を認識すべき」
2018.11.30 23:13、産経新聞

石破茂「独立国だった韓国を併合し、朝鮮人の名字を変えた。その歴史を認識すべき」・無知丸出し 早大生らを前に、未来の日本づくりについて思いを語る自民党の石破茂元幹事長=30日夜、東京都新宿区
早大生らを前に、未来の日本づくりについて思いを語る自民党の石破茂元幹事長=30日夜、東京都新宿区

 自民党の石破茂元幹事長は30日、早稲田大で講演し、いわゆる徴用工訴訟などをめぐり悪化する日韓関係に関し「判決は国際法的に間違っている」としつつ、「合法であっても独立国だった韓国を併合し、(朝鮮半島出身者の)名字を変えることが行われた。そういう歴史があったことをどれだけ認識するかだ」と述べ、過去の経緯を踏まえた対応が関係改善に必要との認識を示した。

また、石破氏は9月の党総裁選で自身の国会議員票が伸び悩んだ理由に触れ、「どれだけ国家を語り、人生観を共有できるか、そういう努力はまだまだ足りなかった」と振り返った。

>「合法であっても独立国だった韓国を併合し、(朝鮮半島出身者の)名字を変えることが行われた。そういう歴史があったことをどれだけ認識するかだ」

石破茂は、何を言ってるのか?

まず、韓国を併合したことは事実だが、それって「そういう歴史があったことをどれだけ認識するかだ」と仰々しく早稲田大学の学生たちに話すことだろうか?

大日本帝国が「日清戦争」後1895年に「下関条約」によって独立国となったばかりの大韓帝国を双方の合意の上で1910年に併合したことは事実だ。

そんな歴史があったことは、普通の日本人なら認識しているし、講演した相手の大半の早大生も認識しているはずだ。

次に、「(朝鮮半島出身者の)名字を変えることが行われた」というのは、正しい歴史事実でも正しい歴認識でもない完全な虚偽だ。

「日本が朝鮮人の名字を変えた」のではなく、多くの朝鮮人が日本人風の名前に変えることを要望したので朝鮮人に創氏改名を許可したのだ。

石破茂は、本当に馬鹿だ!

おそらく、石破茂の講演を聴いていた早大生の大半も、石破茂の無知に呆れたことだろう。

創氏改名は、主に満州国や支那にいて支那人から虐められていた朝鮮人たちの強い要望で始まったことだ。

1940年2月11日、上記のような一部の朝鮮人の強い要望を認め、創氏改名の受け付けを開始した。

すると、朝鮮人たちは、創氏改名の届け出に殺到し、長蛇の列をなした!
創氏改名に殺到しているソウル市民
創氏改名に殺到しているソウル市民

創氏改名の受付期間は1940年2月11日から同年8月10日までの6か月間だった。

地方役人(殆んど朝鮮人)が仕事をしているように見せるために強圧的に推奨したことはあったようだし、学校の先生も将来の就職などを考慮して奨励したといわれている。

それでも、結局79%の朝鮮人が届け出たが、21%の朝鮮人は最後まで届け出なかった。

当時の朝鮮総督だった南次郎は、「強制してはならない」「強制ではない」など3回も訓令を発していた。
南次郎
南次郎
当時の朝鮮総督だった南次郎は、強制してはならないと3回も訓令を発していた。 創氏改名も強制ではなくあくまで本人の自由意思、ちゃんと証拠の新聞も残っている。
氏の創設は自由
強制と誤解するな
総督から注意を促す

昭和15年(1940年)3月6日、大阪朝日中鮮版

▼創氏改名の届出についての告知ビラ▼
大邱地方法院『好機を逸さぬよう!即刻届け出しましょう!』
創氏改名の届出についての告知ビラ大邱地方法院『好機を逸さぬよう!即刻届け出しましょう!』

■期限は刻々に迫る 八月十日限り 今熟慮断行の時
■認識を誤って悔いを子孫に残さぬよう
(朝鮮語)

△好機を逸さぬよう!(朝鮮語)
△即刻届け出しましょう! (朝鮮語)

氏設定について御注意
1.創氏届け出は八月十日までです。その後創氏届けはできません。名の変更には期限がありません。
2.八月十日までに氏の届けをなさぬ者は従来の戸主の姓がそのまま氏となる結果、戸主の姓が金なれば、金が氏となり、妻尹貞姫は戸主の氏に従い金貞姫となり、子婦の朴南祚は金南祚となり、紛雑するおそれがあります。
この結果は内地式を設定しなかったことをかえって後悔することになるだろうと思われます。
3.氏と姓とを混同する向きがあるようですが、氏は家の称号であり、姓は男系の血統を表するもので、両者の性質は全然異なっております。
4.氏を設定すると従来の姓がなくなるという誤解があるようですが、氏設定後においても姓および本貫はそのまま戸籍に存置されますから心配ありません。
5.門中または宗中は同一の氏を設定しなければならぬと考えられている人もありますが、大いなる誤解であります。氏は家の称号であるがゆえに、各家異なる氏を設定するのが当然であります。
6.氏選定について熟慮中のようですが、考えすぎるとかえって迷うおそれがありますから、速やかに簡明なものに決定するのがもっとも理想的であります。
7.期限も迫りました。不審の点は早く府面邑または法院へお問い合わせください。

(府面邑→市町村)

大邱地方法院

以上のとおり、当時の朝鮮人たちの強い要望を認めて始まった「創氏改名」は、朝鮮人の地方役人は強く奨励したが、朝鮮総督の南次郎は「強制してはならない」「強制ではない」などと3回も訓令を発し、最終的に79%の朝鮮人が届け出た。

戦後になって韓国人や朝鮮人や反日左翼らは「日帝は朝鮮人の名前を奪った」と主張しているが、それは絶対に有り得ない。

そもそも、朝鮮人の名前は、【姓+名】だったわけであり、創氏改名は改姓・廃姓をせずに新たに氏を創って、【(姓)+氏+名】としたのだ。

その証拠に戸籍簿には本姓の記載欄もあった。

つまり、【姓+名】だった朝鮮人の名前が【(姓)+氏+名】となったのだ。

ちなみに、麻生太郎は、平成15年(2003年)5月31日、東大学園祭で、「当時朝鮮の人達が日本人のパスポートを貰うと名前に『金』とかが書いてあった。それを見た満州の人達が、『朝鮮人』だと言って仕事がしにくかった。そこで朝鮮の人達が『名字』をくれと言ったのが始まりだ」と発言した。
(厳密に言うと、麻生発言は、若干正確性に欠ける)
麻生太郎 創氏改名 毎日新聞 2003年6月1日付
創氏改名「朝鮮の人が名字をくれと言った」
麻生氏が発言
平成15年(2003年)6月1日付毎日新聞

話を最初の「日韓併合」に戻す。

来たる12月4日は、1909年に朝鮮(大韓帝国)で最大の政治団体だった「一進会」が、「韓日合邦を要求する声明書」(韓日合邦建議書)を皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った日だ!

朝鮮は7世紀から19世紀まで歴代支那大陸帝国の属領・属藩だった。

日本は日清戦争後の1895年の下関条約で清国に朝鮮の独立を認めさせ、朝鮮は日本のお陰でようやく独立できた。

日本のお陰で清国から独立できた朝鮮(大韓帝国)は日本からカネやヒトの支援を受けたが、あまりにも朝鮮人の能力が欠如していたために国家破綻の危機が続いた。

結局、自分たちの力ではマトモに独立(一人立ち)できそうになかった朝鮮人は、日本との合邦を希望した。
12月4日は、1909年に大韓帝国で最大の政治団体だった「一進会」が、「韓日合邦を要求する声明書」を韓国皇帝、韓国統監、韓国首相に送った日!
「合邦」を望む、朝鮮半島からの熱意あふれる電報の数々

大韓帝国で最大の政治団体だった「一進会」は1909年12月4日、「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曾禰荒助統監に提出した。

「韓日合邦を要求する声明書」

 日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。
それでも韓国はこれをありがたく思うどころか、あの国にくっつき、この国にくっつきし、結局は外交権を奪われることになったが、これは我々が自ら招いたことである。
丁未条約を締結することになったのも、やはりハーグ事件をおこした我々に責任がある。
伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、太子を導いて我々韓国のためにご苦労されたことは忘れられない。
にもかかわらずハルピンの事件がおきてしまった以上、こんごいかなる危険が到来するのかわからない。
これもまた韓国人自らそうしてしまったのである。
(中略)
 それゆえ劣等国民として保護されるよりは、いっそ日本と合邦し大帝国をつくって世界の1等国民として日本人とまったくおなじ待遇をうけながら暮らしてみよう。

1909年 12月4日  一進会(百万の朝鮮人会員)

しかし、日本側の併合反対派であった曾禰荒助統監は、この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ、反対の論調をとらせた。

それでも、韓国側の併合推進派である一進会は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと4回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。

1910年8月16日、李完用首相は日本の水害見舞いと称し、趙農相を伴い、寺内の居る統監邸を訪れた。

ここで山県副統監を交えた会談3時間に及び、若干の修正にて日韓併合は合意に達した。

この結果にもとづき李完用首相は8月18日に閣議を開いたがまとまらず、8月21日李完用が皇帝に内奏し、皇帝の了承を取り付けた。

これにより1910年8月22日の韓国の御前会議で韓国は正式に日韓併合を決定した。

以上のとおり、「日韓併合」は、当時の状況下で多数の朝鮮人が要望し、【日韓双方の合意による条約】を以て成立した。

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Source: 正しい歴史認識・国益重視外交・核武装実現

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