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百田尚樹氏の真骨頂!永遠のライブ「3月10日は、日本人なら決して忘れてはいけない日です」

東京大空襲、下町で死者10万人

1945(昭和20)年 米空軍のB29爆撃機344機が午前0時8分、東京上空に飛来。1665トンの焼夷弾(しょういだん)で下町地区は火の海となり、死者10万人、焼失家屋27万戸、東京の全建物の4分の1が破壊されたといわれる。この日以降も4月13日、5月25日の大空襲を中心に、105回の空襲を受けた。東京都は1990年に、3月10日を「東京都平和の日」と定めた。

こんばんは。百田尚樹です。もう随分昔の話になりました。1945年昭和 20 年3月10日ですから、今からもう 78 年前ですね。 3 月 10 日今日です。はい。この日はですね。まあ、史上最悪の空襲が行われ日です。東京大空襲です。1945 年昭和 20 年の 3 月です。日本は危機的な状況でした。もう継戦能力や石油もほとんどない。連合艦隊はもう壊滅状態です。国民の食べるものさえないという状況ですね。多くの武器も作られないという状況です。はい、そういう状況になったでですね。サイパンが陥落し、ここからアメリカの大型爆撃機がサイパンから日本まで飛んでくるようになりました。昭和 20 年の 3 月の 9 日。深夜から 10 日の未明にかけて。もう未曾有の大空襲は行われました。この時にですね。アメリカの B 29 は約325 機です。すごい数です。もう 325機。凄まじい爆弾を積んで日本の東京のあの民家密集地帯です。まあそこにはですね。当時、日本のその若い男たちはもうほとんど戦争を行っていました。あのかなり。双剣な男子はもうほとんどその戦場に送られてましたんで、民家密集地帯に住んでいた人とは女性と子供と老人が大半でした。アメリカ軍ですね。そういう人たちを大量に焼き殺すことによって、日本軍の戦意を喪失させようと考えて。まあ、この大空襲を計画しました。で、この大空襲はですね。その 目的は 1人でも多くの日本人を焼き殺すためにですね練られたもんですから。まあいかに効果的にそういうことが行われるように。まあ非常に綿密に周到に計画を練り上げました。そのために日本の歴史まで調べて。関東大震災。それから更にそれだけは関東大震災ですね。この時ももう大火災が生じて、多くの日本人が亡くなったわけですが、これがどういう風に送られて、どんな風に日本人が被災して亡くなったか、焼け死んだかということも綿密に調べて、さらにそれだけはないんですね。江戸時代の明暦の大火まで調べ尽くしたんです。目的はさっきから言いますように。日本人を焼死させることですね。1人でも多く。そのためにはだからどんな爆弾が有効かということで、爆弾の研究から始まりました。要するにその単純に爆弾を落としてバーンと破裂するソースと忍法だけなんですけど、そうじゃないアメリカ軍ですね。日本人の家は木と紙でできてますから、これをですね。大量に燃やし尽くせば大量の焼死者が出るだろうということで計画されたわけです。そのためにですね。アメリカはユタ州の砂漠に。日本家屋をこしらえたんです。日本人の町をこしられたんですよ。そこでですね。どういう形の爆弾なんですけど、どういう形の焼夷弾を使えば。より多くの家が燃えるであろうか、ということを研究して爆弾を作りました。日本家屋を作ったんですが、ハワイから日系のアメリカ人の職人をですね。何人も呼び寄せて、その日本家屋の中に畳、布団。障子や卓袱台まで用意してそうして、そこにどういうような効果的な爆弾を落とせばそれらが燃え上がるかということを何度も実験繰り返したわけです。はい。いや、もうね。鬼畜の所業だと思います。そうして。東京は本来ならですね従来はですね。大体こう B 29は普通高度は 8500m から 9500m ぐらいの高さからまあ爆弾を落としてたんですが、まあ昼間のね。中間爆弾でシルバーに爆撃するんですが、これはもうヨーロッパでもそういう活用となりました。ところはですね。それでは目標にうまくその爆弾が通達しない、あるいはその当日風が非常にに強い日を狙ってあったので、風で高度だから流れてしまうと。それでは効果あげられないってことですね。なんとその日はですね。夜間爆撃にして高度 1500m から 3000m かなり低いです。もう相当低いところから、爆弾の精度を上げるためにやりました。というんですが、これもですね。もうできる限り爆弾を積みたいということで、本来そのまあ B 20 個はですね。あの、日本の戦闘機が遅いかかってくる。この戦闘機を迎撃するためにこう機銃を積んでますね。要塞のよりもそこら中に機銃があるんですよ。ものすごい数の機銃なんですね。はいですから、もう少額がないと言われてる。具合のすごい戦闘機ああ。すごい爆撃機やったのが、この機銃とか非常に重いす。1 つの機銃だけでこうものすごいですね。で、そこに機銃はいっぱい詰めますから。ところがですね。その爆撃に関しては機銃まで外したんです。つまり機銃全部外してるんですよ。機銃をかなり外して軽くなった分に、また爆弾が詰めるだろうということで、一機あたり、爆弾をその更に普段の爆弾容量よりもさらに 200kg 以上爆弾ですよ。いや、もう。いや、もうちょっとね。考えられないですね。これ当日もひど過剰に風の強い。あの 3 月の風の強い日を選んだ。風が強いということは、火災が起こった時に火災旋風が起こる。そして風がより一層火災を広げるということで。まこの日ですね。爆撃してですね。一夜にして。10万人以上の人がなくなった、あの 1 回の爆撃で亡くなった数ではおそらく史上最大でしょう。後にアメリカ軍は広島で原爆、長崎で原爆を投下しました。広島、長崎の原爆よりもはるかに多くの人は亡くなってます。たった一夜です。本当にたった 1 日ですよ。はい。いや、もうちょっと。すごいですね。しかも狙った場所はです日本の作業、今したら民家密集地帯。当時の浅草区、深川区、本庄区、中心にですね。まあはっきり言って庶民の町です。庶民建屋ですね。もう江戸時代からずっと暮らしてたよな。そういう庶民の町です。爆弾を落としたわけですよ。私の友人の畑山健二という作家がいます。あの本庄からのシリーズがね。もうすでに 180万も売れてると言えば人気作家になりますけども、私の学生時代からの友人です。彼のお父さんがこの小学校の時に小学校 6 年生の時に当然その東京大空襲の合っています。その時ですね。まあ、彼はその畠山健二のお父さんは助かったんですが、実は小学校のクラスの誰とも会ってないというんですね。もちろんそのクラスの中でもしかして助かった人がおるかもしれませんが、恐らくクラスの大半がまほとんどがその空襲でなくなった。あの畑の健二の父親は非常に運がよく助かったということがですね。そういう注いでそいらて。もう当時の記録見てましたもんね。これはもう本当に爆弾を押した中で助かった人ってのも奇跡に近いと思います。この爆弾この空襲でですね。東京市内東半分東京 35 区があったんですが、その 1/3 以上の面積が消失したんです。東京の 1/3 だ。ももえなんか覚えてなくなんですよ。でものすごい火災です。とにかくすごい火災が起こってですね。この煙がなんと 1万5000m の成層圏まで達したと言われてます。1万の 1000m で煙行ったんですよ。成層圏ですよ。はい、当時風が吹いてありますね。で、火災が起こるとさらに一層風が強くなるんですね。その火災旋風はですね。ものすごい風に煽られて炎がぶわーっと舐めるようにその町中を走るわけですよ。その火災旋風波の暴風ですよ。はい、秒速 100m です。秒速 100m の火災旋風がですね。本当にもうものすごい数の人がまあ亡くなったんですよ。でも皆もう夜景夜景の熱熱からの逃れようとした人はですね。隅田川とかもいろんな川に飛び込んだんですが、当時非常に寒い日でした。9 日今現在の夜元寒いだから、もう川なんかもう氷がある張るぐらいね寒いです。飛び込んですか?もうかなり飛び込んでると思う。ほぼほぼ全員が溺死か凍死しました。はい、まあそんなわけで一夜にして 10万人以上の人が亡くなるというね。はい、こんなことがあったんですが。これでその指揮官がカーチスという指揮官です。で、この監視するまでですね。えー後のこと喋ってます。で、戦後にこんなこと買ったので、当時日本人を殺すことについて大して内面はしなかったと。あの、それでこれをですね。もし戦争に破れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていたんだろうと。幸いなことに我々は勝者になった。いつまでね。感知する前は自分が多くなったことはもう明らかに早く陸戦条約に反視してる。もうこれは明らかに戦争犯罪であるということを知ってたわけですよ。だって民間人を戦死させることを目的にして、そして一夜にしてその目的を足して 10万人以上の人をまあ証紙で立場ですね。よく東京裁判でですね。多くの日本人がそのま戦争犯罪について裁かれたことを知ってます。しかしながら、この東京裁判がいかに欺瞞に満ちたものかっていうのはよく分かります。つまり、本当に戦争犯罪にあれはその人類に対する罪ということで。まあこれは事業法で鯖かれたわけですが、もしそういうことで、そのそのそれが正義の鉄槌あるいはその正義のその裁判なのですね。これはいわゆる配線国あれは問わず、これは裁かれるもんだと思います。でも現実ではですね。えー。この東京裁判で戦争犯罪人として裁かれたのは日本人だけです。はい、アメリカ軍あれは連合いいです。のは全く。もちろん、それにも全く捌かれてません。はい、彼らは行った製造判断つらものすごい飾ります。あのーやらんですけどね。よくその大きなの方はですね。我々はもう。沖縄はもう。唯一。あのまあ陸上戦が行われて大量に犠牲者が生まれたというふうにしてですね。沖縄はもう自分たちだけは被害者という風にいますが、とんでもない話ですね。これは当時の日本人全部が被害を受けましたけども、沖縄でなくなった一般民間人よりも東京の空室で亡くなった人の数がはるかに多いです。それから、まあ、広島、長崎の原爆でも一晩で多数の人が亡くなってます。それだけな大阪でも名古屋でも同じ事ですね。空襲でもう本当に何十万人という方がなくなってます。はい、決して沖縄だけが被害者でありません。はい、そして沖縄ですね。戦後 15 になってから、あれはその不正された。沖縄を守るためにどれほどの多くの特攻機が出撃して、もう何千人という若者がもう沖縄のために命をかけたかということです。そして、沖縄の軍人もたくさん亡くなっておられますけども、その沖縄を守るために、その本土からものすごい数の兵隊さんたちがですね。沖縄に行ってそこで命を失っておられます。はい、あのいつも話がすれましたけども、あの、本当にあの戦争は悲惨な戦争でした。多くの日本人がこの本日その 3 月 9 日から 10 日に何が行われたかということをもうほとんど知りません。例えば 3.11 と言いますよね。まあ、皆さんの記憶には新しい東北大震災ということありますけども、その前日の 3 月 10 日と言われて、この 3 月 10 日で日本でこんな出来事があったんだよ。何か分かりますかと問われて即座にそれはあの東京大空襲だなと。言える人は今日本人に果たして何人?いるでしょうか?言うこと思います。ちなみにですね。余談だから、そのカーチスロ名という感じですね。あの、当時のまあさっきから言います。東京大空襲の指揮官ですけど、これはですね。なんと悲しいことに戦後日本はですね。自衛隊育成に協力があったということで。ま、最高の勲章!あくん一頭旭日大受賞という。まあまあ最高の勲章です。これを感じる部分に。この水槽与えては?いや、これ!これは本当に情けないことですね。当時の日本政府は一体何を考えてたのかと思います。普通ねこの 1 等、旭日大辞書となってください。最高の勲章はですね。いわゆるその。まあ、天皇真珠と言います。ですね。天童自らが最高の工場ですから、天皇自らを与えるということは心中使うんですが、まあこれ信条がまあその例です。ところはですね。この時、昭和天皇はその真珠を拒否しました。これの市営会に対して、私はとてもじゃないが、自身の力は 10 はできないということでですからね。当時の日本政府、佐藤内閣です。けども、当時の日本政府なんかよりはるかに。昭和天皇は立派な見識を持っておられた方だと思います。これに関してはね。もう喋り出したらもうちょっとほんと止まらないんですよね。もう。もう 1 時間の 2 時間でも喋ってしまうぐらい。まあ、いろんな思いがあるんですけども、それをあんまり語るのはね。何かと思います。私はですね。一度田母神さんの選挙演説都知事選に立たれた時ですね。選挙応援によって、まあいろんなことを喋ったんですが、その時にですね。この東京大空襲と話をしました。今しゃべったようなことでそんなの予約は喋ってませんけど、これはもう明らかに戦争犯罪であるとかいうことははっきり申し上げました。するとですね。毎日新聞社ですね。これとんでもない発言だっていう新聞に書いてですね。私の発言をわざわ当時の日本アメリカ大使館アメリカ大使のケネディに対しですね。まあ、告げ口に行くということをやりました。日本の百田尚樹って作家アメリカ軍の戦争による昭和45 年 3 月 10 日、9 日から 10 日に行ったことは戦争犯罪になるという風にそんなふうに語りました。よってるってね。ケネディに対してね。それ、わざわざ告げ口する形にですね。で、まあ去年に対してですね。いや、そういうそのですかね。日米関係にそのままくさびを打つような。そういうようなことは発生するのは許せないとみたいなことをねえー。毎日新聞はそれをまた喜んで記事みたいてました。はい、それをその記事を見て朝日新聞ですね。また私の発言をして、わざわアメリカの国語省まで釣れるというね。新聞に書くということがありました。はい、一体どこの国の新聞なんだということです。はい、私はここでもあえて言いたいですが、その時のこの田母神さんの選挙演説、今日は申し上げましたが、私はこれをですねえー。帰ってその復讐したいとか、あるいはこれ裏目に思ってるとか、そういうことは申し上げませんでした。はい、もうこれはさすがにもう 70 年以上前のことなんでね。そういうものをね。今裏部屋もっと仕方ない。イオンとアメリカは共に同盟国として、まあかつての今週を忘れてる。まあ新しい未来に向かって同盟国とやっていくで今更中でですね。その恨みを話せとかですね。それを保証しろとか。もうそういうものはもう過ぎ去ったことです。はい。あれはね。日本人はそれは忘れてはいけないことやと思ってますし、そしてアメリカ雲ですね。これはなかったこととはしてもらいたくないということです。はい、私の方がただそれです。はい、これ裏見はしないが、アメリカ軍もアメリカの国民はですね。数でこういうことをしたということは、やっぱり。ま、そんなことは知らないよ。ともう忘れてしまった。昔のことだよ。というわなことはしてほしくないと思います。はい、すいません。それだそれはまだまだ色々言いたいことあるんですけどもま一応今日はこの辺りしておきます。長々と失礼いたしました。

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