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甦る「海道東征」Source: 愛国女性のつどい花時計

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天皇陛下の即位に関する一連の行事が滞りなく終わられたことを慶賀いたします。おめでとうございます。

最近「万世一系」という言葉をよく聞きますが、言葉の意味を知る人は意外と少ないような気がします。私の知る限りでは「万世一系」を唱えたのは山鹿素行や横井小楠で、その反対語がシナの「易姓革命」です。シナではもし皇帝に徳のない人物がなった場合、皇帝を倒して新しい皇帝を立てることが正当化されます。だからしょっちゅう革命が起きて戦乱が絶えません。一つの王朝が倒れて次の王朝が成立する間に凄まじい虐殺が起きます。人口は激減し、文化は破壊されます。次の王朝は前の王朝を徹底的に否定するので歴史に連続性がありません。史書にも嘘を書くのは、現在の王朝を正当化したいからです。日本は王朝の交代がなく、前の王朝を否定する必要がないので史書に書いてあることも信用できるわけです。

日本の皇室は男系(父系)男子が皇位を継ぎます。今の天皇陛下の父上の父上の父上の父上の・・・と辿っていくと初代天皇である神武天皇に辿り着きます。戦後、日本の左翼は皇室の正統性を否定したいばかりに『古事記』『日本書紀』を否定する学者がたくさんいました。しかし、日本では史書に嘘を書く必要がないのです。自分の父親や祖父や曽祖父のことを美化して書きたいという気持ちはあったかも知れませんが、実際に『日本書紀』を読んでみると、別に天皇を美化して書いてあるとも思えません。歴代の天皇の中には立派な人ばかりではないので、時には困った天皇もいたでしょうが、それはそのまま書いてあります。時には、なぜこんなことまで書いてしまうのか、と思うほど赤裸々な叙述があります。

神武天皇は実在しなかった、という学者もいますが『古事記』に書いてあるのですから実在したのだと思います。嘘にしては非常に詳しく、具体的に書かれているからです。少なくとも、のちの世の人たちが「神武」というお名前を贈りたくなるような人物は実在したのでしょう。

 神武天皇が奈良の橿原の地で即位なさった時(紀元元年)から二千六百年を記念して昭和15年(1940年)、交声曲「海道東征」という奉祝曲が作られました。作詞は近代日本最大の詩人、北原白秋、作曲は「海ゆかば」を作った天才作曲家、信時潔でした。北原白秋はこの曲の完成から2年後に亡くなっています。作曲した時もほぼ失明状態で、資料となる『古事記』と『日本書紀』は自分で読めないので、家族に読んでもらったそうです。

 そんな苦労を経て誕生した曲でしたが戦後、この曲は長く「封印」されてきました。題材が題材であり、敗戦後の日本社会ではこのような「民主的でない」曲は歓迎されなかったのでしょう。神武天皇の存在そのものも否定され続けてきました。しかし戦後七十年経った平成27年(2015年)、突然、信時潔の生まれ故郷である大阪で「海道東征」が公演されたのです。そして新天皇即位の年である今年は東京、札幌、大阪でコンサートが開かれました。

 私は118日の大阪でのコンサートを聞きに行きました。まさか、自分の生きている間に「海道東征」が復活するとは正直、思いもしませんでした。「海道東征」は天照大神の孫であるニニギノミコトが日向の高千穂の峰に降臨するところから始まります。日本という国がどのようにして始まり、どのような経緯を経て国家として誕生したかという「国産み」の物語を明るく美しく歌い上げています。壮大な叙事詩であり、勇壮で力強く、神々しい曲です。

 これからは多くの場所で「海道東征」が何度も演奏されるようになるでしょう。日本人が自分たちのルーツを知る上で欠かせない曲になるだろうと思います。

海道東征とはウィキペディア(Wikipedia)より

海道東征』(かいどうとうせい)は、北原白秋詩、信時潔曲による交声曲(カンタータ)である。1940年皇紀2600年を祝賀する皇紀2600年奉祝曲として作られた。白秋晩年の大作、信時の代表作である。関連した阪田寛夫の著作の題名にもなった。

1940年は皇紀2600年にあたり、これを祝して内外の多数の作曲家が奉祝楽曲を作曲した。例えば日本国内では山田耕筰橋本國彦箕作秋吉伊福部昭ら、国外ではリヒャルト・シュトラウスジャック・イベールベンジャミン・ブリテンなどである。当時東京音楽学校の講師(元教授)であり、NHKの依頼により1937年に『海ゆかば』を作曲したことで広く知られた信時もまた日本文化中央聯盟より委嘱を受け、白秋と共に奉祝楽曲を作ることとなった。

白秋の構想は大きく、予定された分量を超えたので、この曲を第一部として、後に第二部、第三部を執筆する意思をもっていたが、程なく1942年に没した。白秋病没後も信時は独自に神話に取材した曲を構想しスケッチを試みていたが、これもまた未完に終わった。

この曲は広く演奏され、8枚組のSPレコードが発売された。白秋は本作に深い愛着を持ち、死の前年、レコードを持って九州各地を回り講演会と試聴会を開いた。またこの曲は信時作品中最も大きな編成を持つものであり、信時は1962年の再演の際、ラジオ放送を録音し、改めて本作への自信を深めたといっている。

なお、この曲をSPレコードに収録すると15面を要し、結果的に1面が残る。その1面を埋めるために録音されたのが、東京音楽学校演奏による「海ゆかば」であり、戦時中のニュース映画で何度も流されたものである。

そして第2部が、いよいよ、「海道東征」である。神々がおわす天上の国、高天原(たかまがはら)から、天照大御神の孫の神様、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向の国の高千穂の峰に降臨なさった。
 
北原白秋はこの日本の始まりを「海道東征」の第1章とし、「高千穂」と題した。格調高く、バリトンの原田圭氏が、瓊瓊杵尊の高千穂の峰への降臨を歌い上げた。
 
第2章は「大和思慕」である。
 
「大和は国のまほろば、
たたなづく青垣山。
東(ひむがし)や国の中央(もなか)、
とりよろふ青垣山」
 
その旋律に心が引き込まれる。
 
第3章は「御船出」である。瓊瓊杵尊から数えて3代目、4人の皇子が日向を発って大和平定の旅に出た場面である。
 
「日はのぼる、旗雲(はたぐも)の豊(とよ)の茜(あかね)に、
いざ御船出(みふねい)でませや、
うまし美々津(みみつ)を」
 
光の中に船出する皇子たちの姿が目に浮かぶ。東へ向かう途中で荒ぶる神々との戦いがあり、嵐があり、4人の皇子の3人までもが命を落とす。末っ子の神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が大和に到達し、東征の事業を成し遂げるが、この神様が日本国の初代天皇、神武天皇になられた。
 
こうして「海道東征」は第8章まで続く。時に美しく、時に力強く、清く澄みきった喜びに満ちた交声曲である。「海道東征」について何も知らなかった若い女性たちも、楽しんでいた。彼女たちはきっと、これから日本の神話や歴史に、また新たな角度から興味を抱くのではないかと、私はうれしく感じたことだ。

先人たちの言葉
 
そして最後にアンコール曲として「海ゆかば」が演奏された。大伴家持の詩に信時が曲をつけた。多くの人が立ち上がり、合唱した。私の隣りの方は朗々と歌った。

「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山ゆかば 草むす屍
大君の辺(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ」
 
教育勅語は、天皇のために死なせる教育だという的外れな批判が生まれるいま、「海ゆかば」の詩に、スンナリ入っていけない人も多いかもしれない。山折哲雄氏が『「海ゆかば」の昭和』(イプシロン出版企画)で「屍とは何か」と題して書いている。
 
掻い摘まんで言えば、万葉集の挽歌でわかるように、死者の屍とは「たんなる魂の抜け殻」だというのだ。人はひとたび死ねば、その魂は亡骸から離脱し、山の頂や海の彼方、空行く魂となって、この国の行方を静かに見守ってくれる。あとに残された屍には何の執着も見せない。それがかつての日本人の、人の最期をみとるときの愛情であり、たしなみであった、と。
 
同書で谷川俊太郎氏は「子どもの私はそれまでも音楽がきらいではなかったが、音楽にほんとうにこころとからだを揺さぶられたのは、『海ゆかば』が最初だった」「私が愛聴したのが北原白秋詩・信時潔曲の『海道東征』だ」と書いた。
 
私の友人でもあった松本健一氏は、同書で、演出家で作家の久世光彦氏の文章を紹介している。

「『海ゆかば』を目をつむって聴いてみるといい。これを聴いていったい誰が好戦的な気持ちになるだろう。・・・私は『海ゆかば』の彼方に日本の山河を見る。・・・美しい私たちの山河を護るために、死んでいった従兄たちの面影を見る」
 
松本氏も、久世氏も、亡くなってしまった。けれど、彼らの言葉はどれもみんな、私の心に沁みる。コンサートホール一杯に広がった「海ゆかば」の合唱に、静かに感動した。
 
若い女性の友人たちは、「海ゆかば」にとっつきにくいようだった。だからこうした先人たちの言葉を、私は彼女たちにそっと捧げてみたい。

 
Source: 愛国女性のつどい花時計

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