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新紙幣発行で脚光を浴びた津田梅子『あさが来た』広岡浅子だけじゃない名門女子大を作った“豪傑”たち

私の中での、朝ドラ「最高傑作」

あさが来た ネタバレ モデル「広岡浅子」とは?






あさが来たのモデル「広岡浅子」の一人娘は一柳子爵家から養子を迎える。そろそろ気づいた?ヴォーリズの奥さんだよ。広岡浅子の建築界の大恩人ぶりに驚く。


あさが来た、とても楽しい
広岡朝子がモデルで、鈴木梨央ちゃんが木に登ってるのを見ると八重の桜を思い出す
思い出したついでに、今年の花燃ゆはつまんないなぁ



へぇー。あさが来たのモデルになった人、クリスチャンやったんや( ´ω` )
あそこの教会、ちょいちょい歴史のエピソードの中に出てくるwやっぱ古いし、さすがってかんじがする。
これは、また人が来るなw




明治の実業家・広岡浅子をモデルとしたNHK朝ドラ「あさが来た」が始まった。彼女は日本女子大学の設立運動に関わったが、彼女の陰で重要な役割を果たした人物がいる。それが山林王・土倉庄三郎である。

『あさが来た』広岡浅子だけじゃない
名門女子大を作った“豪傑”たちをご存じですか?

日本女子、津田塾、、東京女子、東洋英和、聖心、フェリス

女子高等教育の志を持った成澤〔PHOTO〕NHKホームページより

劇中では「あさ」をはじめ、色々な傑物たちが女子大創立に尽力する。だが、史実はもっと面白い。言わずと知れた有名人たちが関わった名門女子大の成り立ちは、学生じゃなくても知っておきたい。

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大ヒットとなっている朝ドラ『あさが来た』。その第1回の冒頭で登場した、日の出女子大学校の壇上に立つヒロインあさ(波瑠)を覚えているだろうか。事業家として名を成したあさが、最後の大仕事として選んだ「女子大学校設立」のシーンが、これからいよいよ描かれる。

とはいえ、劇中で言われている通り、あくまでも創設者は成澤泉(瀬戸康史)で、あさは支援者にすぎない。今回ドラマにならなければ、史実でも、日本女子大の創設者・成瀬仁蔵に広岡浅子という強力な支援者がいたことは一般に知られることはなかっただろう。

広岡浅子という生き方』の著者で作家の永井紗耶子氏が、当時の女性教育の難しさを語る。

「明治時代の法律では、原則として男性しか『戸主』になることができず、女性は経済活動も相続もできない『無能力者』とされます。女性は『娘』『妻』『母』としてしか存在できなかったのです。

そんな中で、女子大を設立するのは相当ハードルが高かったでしょう。男性でも大学に行く人が少なかった時代、ましてや女子大なんて普通は考えられません。それらの壁を越えるためには、支援してくれる有力者の存在は不可欠でした」

浅子は女子大の設立に向けて、成瀬とともに政財界の「大物」たちに協力を要請する。初代総理の伊藤博文や"最後の元老"西園寺公望、「日本の資本主義の父」と呼ばれた実業家・渋沢栄一と錚々たるメンバーが並ぶなか、東京専門学校(現早稲田大学)を設立した実績を持つ大隈重信にも、発起人になるよう求め、これにより計画は大きく前進することになる。

もちろん、浅子自身も身銭を切って設立に尽力した。実際、同大の目白キャンパスは浅子の実家である小石川三井家の所有地を譲り受けたものだ。

そうして、明治34(1901)年、日本女子大学が開校。浅子自身も創設に尽力した関係者として入学式に参加するのだが、それが劇中第1話のシーンというわけだ。

様々な名士を巻き込んだ浅子と成瀬の大プロジェクトは見事に成功した。一方、他の女子大学に目を向けてみても、その創立には多くの有名人が登場する。

傑物だった津田梅子

明治33(1900)年に津田塾大学(東京都小平市)の前身となる「女子英学塾」を創立した津田梅子は、6歳の時に日本初の女性留学生の一人として岩倉具視使節団とともに渡米した。

17歳までアメリカで過ごした梅子は帰国後、その英語力を活かし、伊藤博文宅で通訳兼家庭教師として住み込みで働くが、再び留学することを決意。その時に、本格的な女子教育に身を捧げようと決心したという。

「梅子が女子英学塾を開校する際の資金は、留学していた時の友人や支持者たちが作った『フィラデルフィア委員会』を通じて、主にアメリカの友人や有志の方々の寄付によって支援されていました。

梅子は24歳の時、2度目のアメリカ留学をしますが、その際に様々な人に『女子の高等教育機関を作りたいと考えている』ということを話していた。その友人たちを中心に同委員会ができたそうです」(津田塾大学・津田梅子資料室)

35歳で英学塾を立ち上げた時、梅子は英語教師として華族女学校で働いており、女性としては高額の給料をもらっていた。とはいっても、日本の財閥や企業から大々的な資金援助なしで一から学校を立ち上げるのは容易ではないはず。実際、梅子が持っていた資金はわずか800円。現在の金額にすると400万円ほどしかなかった。

そこで、前出の委員会に協力を依頼し、創立に漕ぎつけることになる。委員会からの寄付は累計で数百万円にも及び、当時、一つの学校がこれほどの金額を外国人の寄付だけで集めるのは前代未聞のことだった。

『あさが来た』内で、女子大設立のためにどのようにお金を工面するのか問われた成澤は、「西洋では多くの学校が寄付によって成り立っています。建学の精神に賛同してもらい、その方々から寄付を集めるのです」と答えている。

若くして外国人の友人たちに女子教育の重要性を説き、地道に寄付を募った梅子。史実では、成澤の志を体現したのは浅子よりむしろ梅子だったのかもしれない。

女子大とキリスト教

日本女子、津田塾と並んで名門とされる東京女子大学(東京都杉並区)は、二人の教育者の友情によって誕生した。

旧5千円札の肖像画として知られ、同学初代学長を務めた新渡戸稲造と、2代目学長を務めた教育者、安井てつの二人だ。

「パリ万博の審査委員のために渡仏していた新渡戸は、イギリス留学から帰国途中の安井と偶然出会いました。同じ思想をもった二人はすっかり意気投合。後に、安井は友人に向けた手紙の中で、新渡戸のことを『スピリチュアルフレンド』と記すほどの信頼関係を築いたそうです」(東京女子大学総務課)

その後、日本で教派を越えたキリスト教大学を作ろうという気運が高まり、大正7(1918)年に、6つの教派を母体とする東京女子大学が創設される。そこで初代学長として白羽の矢が立ったのが、熱心なキリスト教信者で国際的な活動が認められていた、新渡戸だった。

一度は固辞した新渡戸だったが、安井を学内の実質的な責任者である学監にすることを条件に承諾。一方の安井も新渡戸が学長になることを条件に要請に応じた。

この二人を陰で支えた意外な人物もいる。後に駐日米国大使として活躍するエドウィン・ライシャワーの父、オーガスト・ライシャワーである。

「常務理事として財政を担当していたライシャワーは2万6000坪もの校地購入の際、不足している23万円のカネをかき集めるために奔走し、支援団体から援助を取り付け、窮地を救います。彼はその後も、新校舎の整備など、経営面で大きな活躍を果たしました」(前出・東京女子大学総務課)

このように日本の女子大を語る上で、キリスト教の存在を無視することはできない。明治維新後、数々の欧米諸教会がミッションスクールを作り、それが女子大となったケースが多いからだ。

たとえば、東京都港区にある東洋英和女学院。'14年に放送された朝ドラ『花子とアン』のヒロイン村岡花子の出身校としても知られ、現在では東洋英和女学院大学の運営も行っている。

同学院は、明治17(1884)年に当時のカナダ・メソジスト教会婦人伝道会社から宣教師として派遣されたマーサ・カートメル女史によって開設されたミッションスクールだ。

校舎も特徴的で、長年、鳥居坂のシンボル的存在として親しまれた旧校舎を設計したのは、アメリカ出身の建築家ウィリアム・M・ヴォーリズだった。彼は宣教師でありながら、医薬品の「メンソレータム」を日本で広く普及させた実業家としての顔ももつ。

実はこのヴォーリズ、浅子とも非常に縁深い人物であることをご存知だろうか。

ヴォーリズの妻・一柳満喜子は、浅子の娘婿・恵三(劇中では東柳啓介として工藤阿須加が演じる)の妹。つまり浅子とヴォーリズは縁戚ということになる。当時は華族の娘が外国人と結婚するなど、許されない時代。浅子はその二人に救いの手を差し伸べ、結婚のために一役買ったと言われている。

皇后美智子さまが学生時代を過ごした東京都渋谷区にある聖心女子大学のキャンパスは、もともとは久邇宮邸であり、香淳皇后が幼少時代を過ごした地でもある。皇室とも縁が深い、この大学はフランスの女子修道会「聖心会」によって設立され、初代学長を務めたのが婦人宣教師マザー・ブリットだ。

「マザー・ブリットは相当やり手の方でした。太平洋戦争で一時帰国していたブリットは終戦後、再び来日。それから聖心女子大の創立に向けて奔走します。

当時は、まだアメリカの占領下だったことと、戦後の混乱期であったため、相当苦労したようです。しかし、マッカーサーに大学設立を直談判し、彼の首を縦に振らせた。マッカーサーにとっても、日本がこの先どのような国になっていくのか、暗中模索していたこともあり、彼女の欧米式女子教育に期待し、許可したようです」(メディアプロデューサーの渡邊満子氏)

今も残る創立者の思い

神奈川県のプロテスタント系大学であるフェリス女学院大学の創設には、二人の宣教師が関わっている。

「一人はヘボン式ローマ字などで知られるアメリカの宣教師J・C・ヘボン。横浜の自宅で施療所を開いていた彼と共に、妻のクララは子どもたちに英語などを教える『ヘボン塾』を開校します。ここには、後に大蔵大臣を務め『だるま宰相』として親しまれた高橋是清や、後の外務大臣・林董も通っていました。

もう一人の立て役者が1869年に来日した婦人宣教師キダーです。彼女は多忙を極めたヘボン夫妻に代わり、ヘボン塾の学生を引き継ぎます。次第に女子学生が増えていき、ヘボン邸の一室を利用した授業に限界がきた頃、キダーが頼ったのが当時、神奈川県の権令(副知事)だった大江卓でした」(フェリス女学院大学名誉教授の鈴木美南子氏)

大江卓は土佐出身の実業家として知られる。坂本龍馬の盟友・中岡慎太郎のつくった陸援隊に加わり討幕運動に奔走。明治維新後は、陸奥宗光にスカウトされて、神奈川県の発展に貢献した。鈴木氏が続ける。

「実は大江の奥様がキダーの生徒だったんです。大江はキダーの良き理解者で支援を惜しみませんでした。彼の取り計らいで、野毛山に日本家屋の官舎を提供してもらい、本格的な学校教育がスタートします」

その後、野毛山から、現在の校舎がある横浜の山手に場所を変え、『フェリス・セミナリー』を創立。現在のフェリス女学院大学へと繋がっていく。

最後に毛色の異なる女子大を紹介しておこう。東京都千代田区にある共立女子大は、女性に手に職をつけさせるための職業訓練校として、裁縫私塾の一隅から始まった。「共立」の名前の通り、創立に関わったのは総勢34名。その中には、鳩山和夫の妻で、鳩山由紀夫・邦夫の曾祖母の春子も含まれており、彼女は後に学長も務めている。

広岡浅子のように、大学創立の中心には必ず豪傑と呼ばれる人物が存在する。事実は小説よりも奇なり。ドラマ以上の物語がそこにはあった。

「週刊現代」2016年3月19日号より

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