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保守速報🌸最新!元売春婦が天皇陛下に手紙「私は慰安婦と呼ばれた吉元玉です。あなたの真心からの謝罪を願います」

20190329元売春婦が天皇陛下に手紙「私は慰安婦と呼ばれた吉元玉です。あなたの真心からの謝罪を願います」日本軍「慰安婦」被害者キル・ウォンオク、ハルモニの親筆手紙。定義記憶連帯提供
「11歳から慰安婦を始めた」などと大嘘を吐きまくる元売春婦の朝鮮人糞婆の吉元玉(キル・ウォンオク)が天皇陛下に謝罪を要求する手紙を送った!
「私は慰安婦と呼ばれたキル・ウォンオクです。私はもう92才です。私が死ぬ前に必ず真実を明らかにし、あなたの真心からの謝罪を受けることを願います。」

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?art_id=201903281712001
「私はもう92才です。私が死ぬ前に必ず真実を明らかにし、あなたの真心からの謝罪を受けることを願います。」
京郷新聞(朝鮮語)
日本軍「慰安婦」被害者キル・ウォンオク、ハルモニ(92)が京郷新聞に宛てた手紙。正義記憶連帯提供
日本軍「慰安婦」被害者キル・ウォンオク、ハルモニ(92)が京郷新聞に宛てた手紙。正義記憶連帯提供

時には内容をすべて見なくても伝えたいことが分かる時があります。びっしり書かれた文字から感じられる真心と差出人の名前が全てを説明するからです。去る20日、京郷新聞に届いた一通の手紙がそうでした。手紙を送った人物は1927年、平壌(ピョンヤン)で生まれました。13才になった年、軍人によって強制的に引きずられて行った戦場で想像もできない苦痛を味わいました。

それから80年余り。92才の高齢になった彼女は多くのことを望みません。加害者の真心からの謝罪と反省。最小限の良心を守ってくれるのを待ちます。

手紙を受けとる側は1933年、日本の東京に生まれました。12才になった年、自身の父親が主導した戦争で廃虚に変わった都市を目撃します。彼は自他共に認める平和主義者に成長しました。それからやはり80年余り。86才になった彼は来る4月30日、自身の生涯の仕事から退任します。

送ったのは日本軍「慰安婦」被害者、吉 元玉(キル・ウォンオク)。受けとる側はアキヒト(明仁)日王。日本軍「慰安婦」被害者が退位を控えた日王に送る最後の手紙です。

20190329元売春婦が天皇陛下に手紙「私は慰安婦と呼ばれた吉元玉です。あなたの真心からの謝罪を願います」 日本軍「慰安婦」被害者キル・ウォンオク、ハルモニの親筆手紙。定義記憶連帯提供
日本軍「慰安婦」被害者キル・ウォンオク、ハルモニの親筆手紙。定義記憶連帯提供

明仁日王の退位儀式は去る12日から始まりました。1989年即位して30年間、日王の席を守り生前退位するといいます。最後の退位式が開かれる4月30日まで日本では多様な行事が開かれることになります。日王の在位期間に合わせて「年号」(現行:平成)を使う日本では一つの時代が終わるという意味があるからです。

ところが退位は明仁日王自らにも大きな意味があります。彼には一生担ってきた重い荷物を下ろすことだからです。望もうと望むまいと日王は戦争の責任から自由ではありません。誰かはこの様な見解について「タブーに触れること」と言います。日王に対する謝罪要求は「妄言」というものです。(長文に付き中略。元記事参照)

明仁日王個人の信念について論じることはできません。ただし、日王家は「平和主義者」であることを根拠に戦争犯罪から免責されました。ヒロヒト日王は人間宣言当時、日王制に「平和主義的」伝統があると明らかにして免責を正当化しました。万世一系という日王家が「平和主義者」路線に従わなければならない理由です。

キル・ウォンオク、ハルモニの手紙が日王に渡される確率はほとんどありません。ひょっとして伝えられても、日王ができることはないのかもしれません。慰安婦問題はすでに国家間問題で扱われているからです。ひとまず「歴史問題」、「政治問題」になれば常識は重要ではありません。「誤りをしたら謝らなければならない」という常識より「外交的修辞」と「政治的状況」だけが強調されます。

それでも記録は残さなければなりません。被害者が責任者を指定して謝罪を要求したことを歴史に伝えなければならないからです。明仁日王は戦争を「経験した」最後の世代です。彼に戦争は単なる「歴史」ではありません。日王の権威が万世一系に基づくならば、明仁日王は先代の誤りについても責任を負う姿勢を見せなければなりません。

日王は被害者の同意なしに免責されました。現在の韓日間の葛藤はすぐにこの問題で始まるかもしれません。両国の未来のために責任者の勇気ある決断が必要です。まだ明仁日王には「誤った歴史」を正す1カ月の時間が残っています。

>手紙を送った人物は1927年、平壌(ピョンヤン)で生まれました。13才になった年、軍人によって強制的に引きずられて行った戦場で想像もできない苦痛を味わいました。
>それから80年余り。92才の高齢になった彼女は多くのことを望みません。加害者の真心からの謝罪と反省。最小限の良心を守ってくれるのを待ちます。

またまた大嘘吐きのクソ婆の吉元玉(キル・ウォンオク)の証言(プロフィール)が変わっている!

吉元玉(キル・ウォンオク)が2013年5月に橋下徹に会ったりするために来日した際には、1928年生まれの当時84歳で「1940年に11歳から慰安婦を始めた」という設定になっていた。

2013年5月の来日の際には「吉元玉(キル・ウォノク)さん(84)」、「11歳だった1940年から旧日本軍の慰安所で兵士の相手をさせられたという。」と報道されていた!

2013年5月の来日当時は「1928年生まれの84歳」だった吉元玉(キル・ウォンオク)は、あれから6年も経っていない2019年3月にコッソリと「1927年生まれの92歳」と変更されている!

いずれにせよ、事実関係として、日本軍向け慰安婦の募集において、募集条件は18歳以上もしくは17歳以上とされていた!
事実関係として、日本軍向け慰安婦の募集において、募集条件は18歳以上もしくは17歳以上としていた!

事実関係として、日本軍向け慰安婦の募集において、募集条件は18歳以上もしくは17歳以上としていた!

慰安所で働ける女性の年齢は、日本人は18歳から、他の外国人は17歳となった。

従軍慰安婦は、そもそも戦後の造語なんで相手にする必要はありません。
その上で、慰安婦についての歴史ですが、慰安婦は本来、18歳以上でないと働けなかったのですが、朝鮮人は17歳から働けました。
では何故、朝鮮人は17歳から働けたのでしょうか。
ここに朝鮮人が無理矢理、慰安婦として働いたのではないという本質が隠されているのです。
当初、慰安婦は16歳から働けたのですが、慰安所がどのような場所か分からずに、連れてこられた女性が被害を為に、16歳では慰安の意味が理解できない女性も居るので、18歳からにするよう法改正がされました。
しかし、その時に、朝鮮人はキーセンという男性の相手をする職業の訓練学校が存在していたので、朝鮮人は知らずに働くのではないから、16歳から働かせろと訴えたのです。
朝鮮にとって、16歳から18歳になるのは、死活問題だったのです。
キーセンで学ぶ者(14歳からキーセンで学んでいた)を更に2年間もただ飯を与えないといけなくなる。
それを回避する為に、朝鮮人は16歳でも慰安所を理解しているので、騙されて働くのではないと主張し、16歳から働かせろと訴えたのです。
しかし、日本人は18歳からで朝鮮人は16歳からではあまりにも釣り合いがとれない。
中を取って、17歳(如何にも日本らしい解決策)としたのです。
で、朝鮮人だけを17歳とすると日本から問題が生じるので、他の外国人も慰安所で働ける年齢を17歳(当時、他の外国人の多くが自己申告が年齢だった)としたのです。
ですので、慰安所で働ける女性の年齢は、日本人は18歳から、他の外国人は17歳となったのです。
つまり、朝鮮人は無理矢理、慰安所で働かされたのではなく、寧ろ、早く慰安所で働かせろと訴えた(キーセンの運営者)のです。
それが嘘だらけ従軍慰安婦の真実です。
2019/03/04(月) 08:42:55 | URL | あつし #- [ 編集 ]

吉元玉(キル・ウォンオク)は、2013年までは「1928年生れ」「1940年に11歳(数え年で13歳)から慰安婦を始めた」と主張していた!

しかし、17歳以上でなければ日本軍の慰安婦になることはできなかったため、吉元玉(キル・ウォンオク)が嘘を吐いていることは明白だ!

また、吉元玉(キル・ウォンオク)は「1945年の日本の敗戦によって引揚船で仁川に着いたが、南北分断で北朝鮮になった故郷には帰ることができず、そのまま南の韓国に留まった」などと説明をしているが、朝鮮戦争が始まる1950年以前には南北の行き来は普通に出きていた!

以上の事実から、吉元玉(キル・ウォンオク)が売春をしていたのは、大東亜戦争の時ではなく、朝鮮戦争の時だったと考えて間違いない!

朝鮮戦争で売春婦をしていた大嘘吐きの吉元玉(キル・ウォンオク)は、天皇陛下に嘘出鱈目の手紙を送った恥知らず!


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吉元玉(キル・ウォンオク)の証言は、1940年に11歳で慰安婦を始めて、1999年に70歳になって韓国政府に慰安婦だったことを申告するまで、疑問、矛盾、嘘出鱈目のオンパレードだ。

吉元玉(キル・ウォンオク)の主な証言を以下に掲載する。

▼2006年8月に来日▼

http://www.jca.apc.org/taiwan-ianfu-support/resources/2006/06_8_14harumoni.html
ヤスクニ キャンドル行動に参加したハルモニたち
20190329元売春婦が天皇陛下に手紙「私は慰安婦と呼ばれた吉元玉です。あなたの真心からの謝罪を願います」
キル・ウォノク(吉元玉)さん

1928年、北朝鮮平安北道熙川生れ。

1940年13歳のとき、旧満州(中国東北部)のハルビンに「慰安婦」として連行された。42年、性病にかかって一時帰国したことがあるが、その後再び、中国北部の石家荘に。

日本の敗戦により、1945年、引揚船で仁川に着いたが、北の故郷に帰ることができず、そのまま南の韓国に留まった。

忠清北道の温陽や富川で、雑貨商をしたり、いろいろな仕事をして生計をたてた。54年、養子を迎えた。

1998年に「慰安婦」であったことを申告。
現在、ソウルの挺対協の「ウリチプ」に住む。

>1940年13歳のとき、旧満州(中国東北部)のハルビンに「慰安婦」として連行された。

1928年生まれなので、1940年に「13歳」というのは「数え年」のことと考えられ、満11歳だったということだろう。

▼2008年6月10日に明治大学で行われた「吉元玉さんの証言を聞く夕べ」▼

http://blogs.yahoo.co.jp/asiaforum3tama/54641120.html
吉 元玉(キル・ウォノク)さん 1928年 現在の北朝鮮 平安道生まれ
私の真実をお話して、2度とこのようなことが起こらないように活動しています」

証言者:吉 元玉(キル・ウォノク)さん 1928年 現在の北朝鮮 平安道生まれ

13歳の時に、工場に就職させてあげるということを聞いて、「それなら技術も身に付けられるし、工場に行っていいな」と思って、本当に物心もつかない幼い軽はずみさで、家族の誰にも言わず、信用してついて行ったのが始まりでした。(連行時、吉さんは13歳)行ったところが、ハルビンのあの恐ろしい、今いう「慰安所」でした。

慰安所には監視する人と軍人がいました。監視する人は普段何もしてくれず、叱る時だけ来ます。小さな部屋に入れられ、言われることと言えば、「叫ぶと殺すぞ」「死にたいのか?」の繰り返しです。
13歳ですから、当然泣くし、泣くとこぶしで殴られました。幼かったので、軍人の欲望を満たすことができませんでした。それでさやのついた刀で頭を殴られたこともありました。私が殴られて血まみれになっても軍人は自分の欲望を満たし、監視人は服を着替えさせてもくれませんでした。あとから周りの女の人が着替えさせてくれましたが、血で(くっついて)服を脱がせることができず、びりびり引き裂いて脱がせてくれました。

殴られて痛くてもっと泣くと、足で蹴ったり、更に殴ったり、軍人が監視人に私が従わないと言うと、それを理由にまた殴られました。子どもでも容赦なく乱暴な扱いを受け、食べさせてもらえない時もあり、誰も慰めてくれる人もいません。そんな状況で月日が流れました。生理があるときも、構わず相手をさせられます。敷物が真っ赤になっても、軍人は自分の欲望を満たさないと出て行きません。

身体を洗う、下を拭くこともできず、次々に相手をさせられました。子宮も傷つき、子どもも生めませんでした。

ある日、軍人も監視の人もいなくなりました。戦争が終わって、突然置いていかれました。

苦労の末、韓国に帰ることができましたが、私の知らないうちに祖国は南北が分断されてしまい、北側にある故郷には帰れませんでした。
それに、人々が太極旗を振って祖国解放を街頭で喜んでいても、自分が戦争中どこにいて、どんな目にあっていたのかが分かるのが恐ろしくて、その輪の中には入っていけませんでした。

私の経験したことをすべて語りつくそうとしても、それはもう、言葉では言い表せません。

この問題は私だけの問題ではありません。戦争になれば皆さんも次の世代の人も経験する可能性があります。戦争を2度と起こさないために、私のような経験を2度とさせないために、私は体中悪いところだらけでも、私の真実を話さなくてはならないと思い、ここに来ました。
戦争中、日本軍がどんなことをしたのか、今、日本政府がどんな態度を取っているのかを聞いていただきたい。

そして、どうか日本政府が真実を認め、公式に謝罪・法的賠償をするように、私たちを助けてください。

>13歳の時に、工場に就職させてあげるということを聞いて、「それなら技術も身に付けられるし、工場に行っていいな」と思って、本当に物心もつかない幼い軽はずみさで、家族の誰にも言わず、信用してついて行ったのが始まりでした。(連行時、吉さんは13歳)行ったところが、ハルビンのあの恐ろしい、今いう「慰安所」でした。

当時11歳の吉元玉(キル・ウォノク)が「工場に就職させてあげるということを聞いて、…家族の誰にも言わず、信用してついて行った」そうだが、そのことが仮に事実だとしても、それは家族に売られたと考えるべきだ。

連れて行ったのは、普通に考えて朝鮮人女衒ということになる。

▼2010年 5月 16日▼

http://bund.jp/modules/piCal/index.php?action=View&event_id=5122&font_size=big
(京都)吉元玉さんの証言を聴く会-旧日本軍性奴隷制(「慰安婦」)問題の解決のために

2010年 5月 16日 (日曜日) 16時00分

吉元玉(キル・ウォノク)さんプロフィール

1928年生まれ。13歳(満11歳)の時、お金を稼がせてやるとの言葉に騙され、親にも知らせずについていった。日本軍の「慰安所」に監禁され、軍人に強姦される毎日を送る。
1945年、韓国に帰ったが、南北分断のため故郷平壌には帰ることができず、親戚もいないまま一人で暮らし始める。

1958年、養子を迎える。1991年、韓国で被害女性が名乗り出はじめても、はずかしいことだと明らかにすることができずにいた。
1998年、70歳を迎えたとき、テレビで水曜デモ(日本大使館前で被害女性が1992年から毎週おこなっている抗議行動)の様子を見て、嘆く姿を家族に見られ、家族も知ることになり、勇気を出して申告。以降、積極的に水曜デモにも出て、EU議会で証言するなど、世界各国の若者たちに、戦争に反対し平和と人権実現のため努力することを訴える活動を続けている。

▼2013年「吉 元玉(キル・ウォノク)ハルモニ」の紹介▼

http://www.ianfu-kansai-net.org/shuukai/20130525_2.pdf
吉 元玉(キル・ウォノク)ハルモニ
1928 年、平安北道生まれ( 現在の朝鮮民主主義人民共和国)。1940 年、13 歳の時、「工場で稼がせてやる」と騙され、親にも知らせず付いて行った。まだ生理もなかったのに、ハルピンの慰安所で気絶するほどの暴力を受けながら「慰安婦」としての生活を強いられた。性病治療と言われた手術で子宮を取られたが治らなかったので、1941 年、家に帰された。
1942 年、町で偶然、最初に騙した男に出会った。
震えあがっていると捕まって、再び中国の石家荘の慰安所に連行された。逃げることもできず、「死ぬことになれば死ぬ、生きられれば生きる」とあきらめて過ごす日々だった。

1945 年、ようやく帰国できたがひどい格好でお金もなく、故郷に帰ることもできなかった。自分のことを知っている人に出会ったら恥ずかしいと、1人でひっそり暮らした。
1958 年、男の子を養子に迎えた。1998 年、テレビで水曜デモを観ながら嘆いている姿を家族に見られ、家族も知ることとなり、被害申告を行った。

>性病治療と言われた手術で子宮を取られたが治らなかったので、1941 年、家に帰された。
>1942 年、町で偶然、最初に騙した男に出会った。
>震えあがっていると捕まって、再び中国の石家荘の慰安所に連行された。

やはり、家族が朝鮮人女衒に娘を売り飛ばしていたと考えて間違いない。

そして、ここで重要なのは、2回目は1942年に支那の石家荘に連れて行かれたということだ。

上の文章からは、そのまま1945年まで、支那の石家荘で過ごしたと読み取れる。

したがって、終戦後に支那の石家荘で「解放されたが、南北分断で北朝鮮になった故郷には戻れないまま、韓国で暮らしている。」という証言はおかしい。

南北分断で往来が出来なくなったのは1950年~1953年の朝鮮戦争の後だ。

▼2013年5月に吉元玉(キル・ウォノク)来日時の毎日新聞報道▼

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130518-00000079-mai-soci
<元慰安婦>橋下氏と面会予定の吉さん、「暴言」と批判
毎日新聞 2013年5月18日(土)20時55分配信

慰安所での体験を証言する吉元玉さん=広島県福山市で2013年5月18日、菅沼舞撮影
慰安所での体験を証言する吉元玉さん=広島県福山市で2013年5月18日、菅沼舞撮影

 旧日本軍の従軍慰安婦だった韓国人女性、吉元玉(キル・ウォノク)さん(84)が18日、広島県福山市の集会で講演し、日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長が従軍慰安婦制度を「当時は必要だった」と述べたことについて、「過去の過ちを認めて謝罪できないまでも、暴言を吐いてはいけない」と批判した。

市民団体「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」の招待で来日した。吉さんは日本の植民地だった朝鮮で生まれ、11歳だった1940年から旧日本軍の慰安所で兵士の相手をさせられたという。終戦後に解放されたが、南北分断で北朝鮮になった故郷には戻れないまま、韓国で暮らしている。99年に韓国政府に慰安婦だったことを申告。以来、国内外で自身の経験を証言する活動を行っている。

この日、集まった市民約50人を前に、吉さんは橋下氏の一連の発言について「被害に遭った人間はまだ生きているのに、ひどい言葉を言われ、聞くに堪えない。過ちはきちんと謝罪すべきなのに、逆に人の心をこんなにも痛くさせている」と話した。さらに「暴言に腹が立つ思いもあるが、それ以上に、若い人に慰安婦の事実を知ってもらい、私たちのような経験をする人がもう生まれない平和な世の中を作っていってほしい」と訴えた。

吉さんは、元慰安婦の金福童(キム・ポットン)さん(87)とともに、広島市で19日、岡山市で23日にある証言集会で話をし、24日に大阪市役所で橋下氏に面会する予定。【菅沼舞】

>吉さんは日本の植民地だった朝鮮で生まれ、11歳だった1940年から旧日本軍の慰安所で兵士の相手をさせられたという。

まず、毎日新聞に言っておくが、当時の朝鮮は大日本帝国の一部であって、「植民地」ではなかった。

次に、吉元玉(キル・ウォノク)の証言だが、嘘出鱈目のオンパレードだ!

吉元玉(キル・ウォノク)は、1928年生まれで「1940年に11歳から慰安婦を始めた」と言っている。

しかも、吉元玉(キル・ウォノク)は、『(11歳の時)工場に就職させてあげるということを聞いて、「それなら技術も身に付けられるし、工場に行っていいな」と思って、本当に物心もつかない幼い軽はずみさで、家族の誰にも言わず、信用してついて行った』と証言している。

なお、慰安婦は17歳~18歳以上しか募集されていなかった。
なお、慰安婦は17歳~18歳以上しか募集されていなかった
慰安婦は17歳~18歳以上しか募集されていなかった。

11歳の少女が慰安婦をしていることが発覚したら、間違いなく大問題となり、その関係者は厳しい処罰を受けることになる。

しかも、吉元玉(キル・ウォノク)は、「1940年に11歳から慰安婦を始めた」という場所は、満州国の「ハルピンの慰安所」だと言っている!

1940年当時はまだ対米英蘭戦が始まっていなかったから支那事変の段階ではあったが、満州国は既に支那から独立しており、戦争などしていなかったから満州国の慰安所にはそれ程需要はなかったはずだ。

>終戦後に解放されたが、南北分断で北朝鮮になった故郷には戻れないまま、韓国で暮らしている。

当初「どうして終戦後に支那から北朝鮮には戻れず、南朝鮮には行けたんだ?」と思ったが、1945年に引揚船で仁川に着いたそうだ。

吉元玉(キル・ウォノク)は、1940年に11歳で慰安婦を始めたのは満州国だったが、性病で1941年に家に帰され、その後また1942年に支那の石家荘の慰安所に連行されたと証言している。

そして、吉元玉(キル・ウォノク)は「(1945年)終戦後に解放されたが、南北分断で北朝鮮になった故郷には戻れないまま、韓国で暮らしている。」という。

しかし、「南北分断」と言うが、南北が分断されて行き来が出来なくなったのは、1950年~1953年の朝鮮戦争の後だ。

確かに1945年に大東亜戦争が終わった後、朝鮮は北にソ連と金日成が乗り込み、南にはアメリカが乗り込んだが、1950年~1953年の朝鮮戦争まで南北は往来できていた。

1947年当時、38度線は、越えることの難しい境界線ではなかった。
自由な38度線 解放直後、米・ソ両国軍が進駐したとき、38度線は厳しい境界線ではなかった。 1947年10月、38度線を越えて韓国に来る北朝鮮の一家族。

自由な38度線 解放直後、米・ソ両国軍が進駐したとき、38度線は厳しい境界線ではなかった。 1947年10月、38度線を越えて韓国に来る北朝鮮の一家族。
自由な38度線 解放直後、米・ソ両国軍が進駐したとき、38度線は厳しい境界線ではなかった。
1947年10月、38度線を越えて韓国に来る北朝鮮の一家族。

このように、朝鮮戦争が始まる1950年以前は、南北の行き来が出きていた。

吉元玉(キル・ウォノク)は、大東亜戦争が終わった1945年から朝鮮戦争が始まる1950年までの間、北の故郷に戻ろうと思えば戻ることが出来たのだ。

Wikipediaより
朝鮮戦争
分断と離散

夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された」、というような離散家族が多数生まれた。
マッカーサーは平壌に核爆弾を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、離散家族大量発生の原因となった。
両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には北緯38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となった上、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。

したがって、吉元玉(キル・ウォノク)の「終戦後に解放されたが、南北分断で北朝鮮になった故郷には戻れないまま、韓国で暮らしている。」という証言については、「終戦後」「1953年の朝鮮戦争終戦後」なら有り得るが、「1945年の大東亜戦争終戦後」ということは有り得ない。

>吉さんは、元慰安婦の金福童(キム・ポットン)さん(87)とともに、広島市で19日、岡山市で23日にある証言集会で話をし、24日に大阪市役所で橋下氏に面会する予定。

2013年5月24日に橋下徹に会う予定だったが、ご存じのとおり、吉元玉と金福童(キム・ポットン)は橋下徹との面会をドタキャンして遁走した!
元売春婦の嘘吐き朝鮮人、吉元玉(キル・ウォンオク)(2013年5月時点で84歳)が橋下徹との面談をドタキャンして遁走

韓国から来日中の元従軍慰安婦・金福童(キム・ボクトン)さん(87)と吉元玉(キル・ウォンオク)さん(84)が24日、予定していた日本維新の会共同代表・橋下徹大阪市長(43)との面会を“ドタキャン”した。

元売春婦が橋下との面談をドタキャンしたことについてウソ説明をする「日本軍『慰安婦』問題・関西ネットワーク」共同代表の方清子(パン・チョンジャ)
元売春婦の吉元玉と金福童が橋下徹との面談をドタキャンしたことについて頓珍漢な説明をする「日本軍『慰安婦』問題・関西ネットワーク」共同代表の方清子(パン・チョンジャ)

吉元玉(キル・ウォノク)は、ヨーロッパでも食い違う証言を繰り返している!

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115133356
欧州議会で証言する嘘つきキル・ウォンオク(Gil Won-ok)

矛盾点: 家を出た年齢/家を出た状況/性病
Amnesty.uk:13歳/日本兵が工場の中で仕事を紹介した。/子宮を摘出。
Reuters: 13歳/朝鮮人に仕事を紹介された。/子宮を摘出。
NYT: ----/基地で並んでいたら朝鮮人に仕事を紹介された。/子宮を摘出され「15歳から死んだも同然だった」
FCWA: 1940年12歳と1942年/----/手術のせいで19歳で卵巣腫瘍になった。


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●まとめ●
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▼吉元玉(キル・ウォンオク)ヒストリー▼

1928年
平安北道熙川(北朝鮮)生れ
★2019年3月には「1927年生まれの92歳」とコッソリ変更されていた!

1940年
11歳
工場に就職させてあげるということを聞いて、「それなら技術も身に付けられるし、工場に行っていいな」と思って、本当に物心もつかない幼い軽はずみさで、家族の誰にも言わず、信用してついて行った。
支那事変の最中だったが、戦争をしていなかった満州国のハルビンの慰安所に「慰安婦」として連行される。
日本軍の「慰安所」に監禁され、軍人に強姦される毎日を送る。

1941年
12歳
性病治療と言われた手術で子宮を取られたが治らなかったので、家に帰された。

1942年
13歳
その後再び、町で偶然、最初に騙した男に出会って捕まり、支那の石家荘の慰安所に連行された。
逃げることもできず、過ごす日々だった。

1945年
16歳
日本の敗戦により、引揚船で仁川に着いたが、南北分断で北朝鮮になった故郷には帰ることができず、そのまま南の韓国に留まった。←★★★明らかに真っ赤な嘘

1947年
18歳
当時、38度線は、越えることの難しい境界線ではなかった。

自由な38度線 解放直後、米・ソ両国軍が進駐したとき、38度線は厳しい境界線ではなかった。 1947年10月、38度線を越えて韓国に来る北朝鮮の一家族。

自由な38度線 解放直後、米・ソ両国軍が進駐したとき、38度線は厳しい境界線ではなかった。
1947年10月、38度線を越えて韓国に来る北朝鮮の一家族。

吉元玉(キル・ウォノク)は、大東亜戦争が終わった1945年から朝鮮戦争が始まる1950年までの間、北の故郷に戻ろうと思えば戻ることが可能だった!

1950年
21歳
朝鮮戦争勃発

1953年
24歳 休戦 南北分断←★★★

1954年
25歳
養子を迎えた。

1958年
29歳
養子を迎える。

1991年
62歳
韓国で被害女性が名乗り出はじめても、はずかしいことだと明らかにすることができずにいた。

1998年or1999年
70歳
韓国政府に慰安婦だったことを申告。

2013年5月
84歳
広島市で5月19日、岡山市で5月23日にある証言集会で話をし、24日に大阪市役所で橋下徹に面会する予定だったが、ドタキャンし遁走!

2019年3月
1928年生れの90歳のはずだったが、韓国の京郷新聞は「1927年生れの92歳」と報道!

天皇陛下に対して「私は慰安婦と呼ばれたキル・ウォンオクです。私はもう92才です。私が死ぬ前に必ず真実を明らかにし、あなたの真心からの謝罪を受けることを願います。」 と厚顔無恥な手紙を送る!

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▼吉元玉(キル・ウォンオク)の決定的な嘘▼
元売春婦の嘘吐き朝鮮人、吉元玉(キル・ウォンオク)(2013年5月時点で84歳)が橋下徹との面談をドタキャンして遁走
2013年5月、橋下徹との面談をドタキャンして遁走した元朝鮮戦争売春婦の嘘吐き朝鮮人、吉元玉(キル・ウォンオク)(1928年生れの当時84歳)

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20190329元売春婦が天皇陛下に手紙「私は慰安婦と呼ばれた吉元玉です。あなたの真心からの謝罪を願います」日本軍「慰安婦」被害者キル・ウォンオク、ハルモニの親筆手紙。定義記憶連帯提供
2019年3月、天皇陛下に「私は慰安婦と呼ばれたキル・ウォンオクです。私はもう92才です。私が死ぬ前に必ず真実を明らかにし、あなたの真心からの謝罪を受けることを願います。」などと謝罪を要求する手紙を送った元朝鮮戦争売春婦の嘘吐き朝鮮人、吉元玉(キル・ウォンオク)(1927年生れの92歳)</

■矛盾■
2013年5月の来日当時は「1928年生まれの84歳」だった吉元玉(キル・ウォンオク)は、6年も経っていない2019年3月にコッソリと「1927年生まれの92歳」と変更されている!

■決定的嘘1■
吉元玉は、1928年生まれで「1940年に11歳から慰安婦を始めた」とずっと言っていた。
しかし、慰安婦は17歳以上及び18歳以上でしか募集されておらず、11歳(数えの13歳)の慰安婦の存在が発覚すれば関係者は厳しく処罰されたので有り得ない。

事実関係として、日本軍向け慰安婦の募集において、募集条件は18歳以上もしくは17歳以上としていた!

■決定的嘘2■
吉元玉は、「(1945年)終戦後に解放されたが、南北分断で北朝鮮になった故郷には戻れないまま、韓国で暮らしている。」と証言している。
しかし、1945年に南北に別の支配勢力ができたのは事実だが、1950年~1953年の朝鮮戦争までは、南北の往来が普通にできていたため、「北の故郷に戻れなかった」というのは嘘!

自由な38度線 解放直後、米・ソ両国軍が進駐したとき、38度線は厳しい境界線ではなかった。 1947年10月、38度線を越えて韓国に来る北朝鮮の一家族。
画像:1947年10月、38度線を越えて南朝鮮に来る北朝鮮の一家族。

以上のことから、吉元玉(キル・ウォンオク)が売春をしていたのは、大東亜戦争の時ではなく、朝鮮戦争の時だったと考えて間違いない!

朝鮮戦争で売春婦をしていた大嘘吐きの吉元玉(キル・ウォンオク)は、天皇陛下に嘘出鱈目の手紙を送った恥知らず!

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Source: 正しい歴史認識・国益重視外交・核武装実現

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