〈「オオカミ少年みたいなもんだよ」大坂なおみ選手の祖父が語る北方領土のいま〉から続く 根室管内住民大会の当日、穏便なシュプレヒコールのなか、一人の元島民が「返せ!」と絶叫したらしい。別の取材で不意にその…
「北方領土の日」の住民大会で一人だけ「島を返せ!」と絶叫した漁師
2019年03月12日 11時00分 文春オンライン
〈 「オオカミ少年みたいなもんだよ」大坂なおみ選手の祖父が語る北方領土のいま 〉から続く
根室管内住民大会の当日、穏便なシュプレヒコールのなか、一人の元島民が「返せ!」と絶叫したらしい。別の取材で不意にその人の名前を聞いて、ああ、やっぱりと筆者は腑に落ちた。
色丹島生まれで、先祖代々の漁師、得能宏さんである。
■「島が返還されたら、すぐ帰ります」
得能さんと初めて会ったのは、2年5カ月前のこと。月刊誌「文藝春秋」の取材で根室を訪れた時だった。当時は2016年12月のプーチン大統領来日の直前で、歯舞・色丹の二島だけでも返還が現実になるかもと、根室は異様な高揚感に包まれていた。
当時は、安倍首相の並外れた「外交力」とプーチン大統領の強大な権力に基づく「決断力」が盛んに喧伝され、首相の地元山口での会談で、領土交渉が必ず動くと見た根室の人びとの期待はマックスまで膨れ上がった。
「色丹愛」にあふれる得能さんもその一人。「色丹はね、熊も蛇もいないんだよ。いるのは狐くらい。夜中にどこを歩いても安全なんだ。島が返還されたら、すぐ帰ります。ああ、キャンプしたいなあ。ビザなし交流で島に行っても、キャンプなんかできないんだよ」。少年のように紅潮した得能さんの頬を思い出した。
早速、得能さんに電話を入れた。しかし、こころなしか得能さんの声に張りがない。このところ体調がすぐれず、「明日病院で検査してもらうんだ」と言う。
「得能さん、返せって叫んだんですって?」と筆者。
「それは違うだろうって、腹がたってさ、ぼく一人でいいから叫ぼうと思ったのさ」
■「ぼくは漁師だから声がでかいんだ」
翌朝、市立根室病院の外来待合室。日本中どこでもありふれた光景だが、ここも、お年寄りでごった返していた。筆者は血圧計のそばの長椅子に座って、血圧を計るのに不慣れなおばあさんたちを手伝ううち、得能さんが姿を見せた。
「おっ、待たせたかな」と懐かしい顔の右手が挙がった。得能さんは、2月14日のバレンタインデーに85歳になったばかり。
「ぼくは漁師だから声がでかいんだ」。得能さんの声は少しかすれていたが、以前と変わらぬエネルギッシュさは健在だ。
そして「北方領土の日」の、やり場のない憤りは冷めていなかった。根室の住民大会で消えた「返せ」という文言。得能さんは、今でも、納得できない。
「調子のいい人たちに丸め込まれて、気がついたらこんなはずじゃなかった、と言っても後の祭りなんだ」
たった一人の叛乱だった。住民大会に集まった約800人が「北方領土問題を解決しよう」とシュプレヒコールを上げるなか、一人で「返せ!」と怒鳴り声を張り上げた。
■得能さんが「返せ」と叫んだ理由「本音をぶつけるのは元島民しかいない」
後ろの席の友だちが「返るわけねえべ」と冗談交じりに軽口をたたいたが、得能さんは頑として「返せ」コールを止めなかった。
「みんな、中央の気持ちを忖度して、返せって言わなかったと思う。ぼくだけじゃなくて、手を挙げる人が出てほしかった。忖度だよ、そういうの。それで島が返るならいいけど。でもさ、こんなふうでは、島は返ってこないわ」
得能さんは85歳を越えてなお、元気で返還運動に取り組む、そして色丹島に帰るのを目標にやってきた。85歳に到達した今、もっと頑張らなければと自身に鞭を打っている。
「根室は原点の地だ。本当の本音をぶつけるのは元島民しかいない。そうしなければ、歴史がわかんなくなっちゃうんだよ」
■二島だけ返還でもメリットはある……しかしそれすら困難に
米屋聡さんはJR札幌駅にいた。電話の向こうで構内のアナウンスがせわしく流れていた。「大丈夫、今話せますよ」と米屋さんが言う。筆者が根室に来るのと入れ違いで、札幌へ出張に出たのだった。
今年、還暦を迎える米屋さん。母親が歯舞群島・勇留島出身の二世だ。筆者が2年5カ月前の根室取材で会った当時は、米屋さんも「最低でも二島来るかな?」と、やや半信半疑ながらも希望を語った一人だった。
そして、今はどうか。
「反対派のデモもそうだけど、自分が想像した以上にロシア国内の反発がすごく強いと思う。相当難しいよ、ロシアの状況は。いかにプーチンといえども、強引にはできない。譲歩するのは難しいよね」
米屋さんの意見は現実的で面白い。かつて二島だけの返還でも大きなメリットは2点あると教えてくれた。
一つは、歯舞・色丹が戻ってくると、海が広がるということ。歯舞・色丹二島の合計面積は北方四島全体の約7パーセントにすぎないが、色丹沖の漁場が返る意味は大きい。
二つ目は、平和条約を結んで国境が確定した後のこと。今は墓参やビザなし交流でしか行けない国後・択捉でも、ロシアのビザをとって、自由にビジネスできるようになる。「根室の商圏が広がるんだよ」と、米屋さんが力説したことが忘れられない。
しかし、今、米屋さんは「難しい」を連発するようになった。
「こう言うと語弊があるけど、ウクライナ情勢を見てもロシア国民は過激だよ。プーチンより過激かもしれない」
米屋さんは二島引き渡しの可能性は残っていると思っているが、「それも難しさがあるよね。結局、ロシア国民が納得する道筋を見せられるか、です。だから難しい」と、見立てを語ってくれた。
ただ、公平を期すために紹介するが、元島民と後継者のみんながみんな悲観的になっているわけではない。楽観的とまでは言えないが、希望を捨てていない人たちもいる。
■「メディアはなんだかんだ言ってるけど、話は進んでいる」
歯舞群島・多楽島二世で、62歳の芦崎秀樹さん。昨年の多楽島墓参で二世として初めて団長を務めた人である。芦崎さんの見立てはこうだ。
「ロシアが厳しいことを言うのは、交渉を有利にするためじゃないのか。実際、交渉は決裂していない。メディアはなんだかんだ言ってるけど、話は進んでいるんだよ。ロシアに返す気がないなら、とっくに決裂している」
たしかに、それが外交というものかも知れないと、ド素人の筆者も思わずうなずいた。
北方四島から追い出された元島民と後継者でつくるのが「千島歯舞諸島居住者連盟」、その中核が根室支部で、今の支部長が宮谷内亮一さんである。元島民のスポークスマンとして、日ロ首脳会談のたびに記者会見に引っ張り出される有名人でもある。
暖かな昼下がり、根室でも雪解けが進んで道路のあちこちにできた水たまりを避けながら、郊外にある宮谷内さんの自宅を訪ねた。宮谷内さんは記者会見で、領土交渉に対する感想や元島民としての気持ちを語ってきたのだが、一族のことを深く語ったことはない。筆者はいつか家族のヒストリーを書きたい、と思っていた。
■焼けた重油の匂い――国後島から脱出するときの恐怖の記憶
宮谷内さんは1943年1月、国後島留夜別村で生まれた。父方のルーツは現在の石川県穴水町にある。当時、19歳だった祖父の作次郎さんが単身、国後島に渡ったのが1908年のこと。留夜別村でサケマス、コンブ漁に従事し、石川県から家族を呼び寄せ、やがて2隻の船を持ち、財を築いた。留夜別漁業会の組合長を務めたこともある。
順風満帆だった宮谷内一家の運命も、他の島民と同じく、1945年8月28日からのソ連による四島占領で暗転した。船を持つ島民はソ連兵の監視が手薄な夜中、密かに脱出し、対岸の羅臼や根室を目指した。それは命がけの賭けだった。
「ソ連兵に撃たれた人もいたからね」と宮谷内さん。それでも、作次郎さん以下一家9人で脱出を決意した。45年12月の夜、留夜別村の船着き場からポンポン船を出した。
幼かった宮谷内さんの記憶に唯一残る恐怖の匂いがある。それは焼けた重油の匂いだという。一家9人が船底に敷いた網やムシロの上に横たわり、息を殺した。だが、油の強い異臭をかいで宮谷内さんが泣き叫ぶ。ソ連兵に気づかれれば、一巻の終わりだった。
「あの時、泣くな、泣くな、とボコボコにたたかれた。泣き止んだけども、私の中に恐怖の感情が残っている。長い間、トラウマになったと思う」
■貧乏のどん底を味わった
持ち出せた家財道具はわずか。根室に着いても、家がない、着る物も、もちろん日々の食事もない。年が明けて、日本海側の奥尻島へ、漁業開拓団に参加して移住した。
奥尻島でも、真冬なのに当初はテント暮らしを余儀なくされた。蓄えの米も底をついた。
「貧乏のどん底、というのは、ああいうことを言うのだろうな」
6年後、漁業開拓に挫折し、一家そろって根室に舞い戻った。父親の克治さんは鮮魚を詰めた一斗缶を背負って、「ガンガン部隊」と呼ばれる行商に出て一家を支えた。
作次郎さんが脱出の船に積んで、その後も根室-奥尻-根室と大事に持ち歩いたトランクがある。中身は、大量の書類だ。留夜別村役場発行の「馬籍簿」。これは馬の戸籍。北海道拓殖銀行根室支店の預金証書。そして土地の権利証。「いずれ島に帰った時に必要になる」と、作次郎さんは常々語っていた。
宮谷内さんは今、76歳。国後島を夢見ながら作次郎さんが亡くなったのも76歳の時だった。トランクの中の書類は宮谷内さんが引き継いでいる。
■二島プラスアルファの“アルファ”の意味
「祖父や父の無念というものを知っている。私自身も国後の人間だが、シンガポール合意を受けて、歯舞・色丹で国境線が引かれてもいいと思ってる」と宮谷内さん。
平和条約が結ばれれば、国後・択捉二島はロシアの領土となることが確定する。国後・択捉を故郷とする人たちには耐えがたいことだが、「しかし」と宮谷内さんは続ける。
「歯舞・色丹が戻ってくる時、国後・択捉と自由に行き来できる仕組みをつくる。元島民と後継者が彼岸や盆に島に行って自由に墓参りができるという仕組みだ。二島プラスアルファという時、アルファの部分はそういうことだと思う」
「平和条約を結んでも、強気のロシアが歯舞も色丹も返さなかったら?」と筆者。
「歯舞は一般人が住んでいないんだから、最低でも一島はきっと返す」
宮谷内さんは今年8月にはビザなしの自由訪問に行く予定だ。息子や孫を連れて、家族計6人で国後島に渡る。「子どもたちへの引き継ぎの旅です」と言う。
国後島には、曾祖父の作松さんをはじめ家族6人が眠っている。
写真=奈賀悟
(奈賀 悟)
Source: 文春砲