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三月十日は「陸軍記念日」だった

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 今日、310日が「東京大空襲」の日だという事はテレビでもやります。しかし、なぜ310日に「東京大空襲」という、前代未聞の規模の一般人に対する攻撃がおこなわれたのでしょうか? 大東亜戦争の特徴の一つは一般人の犠牲の大きさです。軍人だけが亡くなったわけではなくおびただしい数の普通の市民が亡くなっていて、そのほとんどは空襲の犠牲者です。その中でも一晩のうちに10万人(!)が亡くなったといわれる「東京大空襲」は「東京大虐殺」と言うべき、民間人を狙った大量虐殺でした。

 アメリカはこの攻撃をするために、わざわざ日本の木造家屋を砂漠に作って予行練習までした、と言われています。相当、計画的に行われた攻撃だったわけですが、なぜ310日だったのでしょうか? 偶然、ではないと思います。当時のアメリカの行動を知れば知るほどアメリカ人というのは記念日にこだわる民族だということが分かるからです。ここからは推測ですが、310日は帝国陸軍の「陸軍記念日」だったからではないでしょうか。

 戦前の小学生の通信簿には記念日を書く欄がありました。アメリカは日本の歴史や文化、日本人の民族性など徹底的に研究していましたから、日本人が310日を誇りにしていることは分かったでしょう。310日は日露戦争における「奉天会戦」で日本軍が勝利した日で、その後、この日は「陸軍記念日」に定められました。

 ロシアは当時、世界一の陸軍大国でした。国力の点からも陸軍の装備の点からも到底、勝ち目はないと戦う前は言われていました。しかし日本軍は武器弾薬の不足を「肉弾」で補い、なんとか辛勝を続け、ついに陸における「関ヶ原」ともいうべき「奉天会戦」を迎えました。明治38年(1905年)310日のことでした。

 「奉天会戦」は地味なせいか、日露戦争を描いた映画などではあまり大きく取り上げられません。「旅順の戦い」や「遼陽の会戦」のほうが有名です。しかし「奉天会戦」にロシア軍は32万という、世界戦史最大の兵力を集中させました。対する日本軍の兵力は25万、大砲992門、砲兵の弾薬は50万発でした。奉天は今、中国の「瀋陽」という都市になっています。「奉天会戦」は砲兵戦で、両軍がバンバン大砲を撃ち合い、その砲声は山河を揺るがした、といわれています。

 227日から始まった戦いは約一週間、不眠不休で続けられ、37日、ロシアの砲声にやや衰えが感じられました。その時、司令部で戦況の判断に神経をとがらせていた大山巌がいきなり「児玉どん、進軍じゃ!」と言ったそうです。児玉どん=児玉源太郎です。砲術の権威である大山巌の判断は正しく、ロシア軍はこの時、まさに退却の準備をしていました。日本軍は奉天街道を埋めるようにして逃走するロシア軍を追撃し、攪乱させました。「奉天会戦」での日本軍の死者は約7万で、ロシア軍とほぼ同じでした。しかしロシア兵2万人を捕虜にし、大砲48門を鹵獲しています。

 「奉天会戦」は圧倒的勝利ではありませんでしたが世界の戦史に名を残す戦いでした。しかし、今の日本人で「奉天会戦」を知っている人がどれほどいるでしょうか? 負けた戦争であれ勝った戦争であれ、戦争の歴史は正しく伝えられるべきだと思います。日露戦争は日本に勝ち目はないと思われていただけに、日本勝利のニュースは世界を驚かせました。東洋の小国、日本が日露戦争に勝利したことで一躍、世界の五大国の一つになったのです。しかし、アメリカはこの日本の勝利を喜ぶ半面、あまりにも急激な日本の台頭に警戒心を抱くようになりました。それが、のちのシナをめぐる日本とアメリカの対立につながったとも言われています。勝利と敗北、歴史はいつもあざなえる縄のように、つながっています。

310日はさまざまな意味で日本の節目となった日です。私たち日本人が忘れてはいけない日だと思います。

 

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Source: 愛国女性のつどい花時計

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