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真🌸保守速報!「AI時代の人間の生き方」和佐大輔物語

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「和佐大輔物語(レポート)」
https://wasakisaka.s3.amazonaws.com/wasadaisuke-historys.pdf

「和佐大輔物語とコミュニティ化(対談音声)」
https://wasakisaka.s3.amazonaws.com/wasakisakasalon-001-jnv5rs.mp3
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僕は17歳の時にお金を稼ぐことが
実はとても簡単だということを知った。
17歳で1億円も稼いだし、
欲しいものは全部手に入れた。
でも・・・
© 2019 Daisuke Wasa
僕が17歳の時に知った
“一番簡単な1億円の稼ぎ方”
どうも、こんにちは、和佐です。
初めましての人も、初めましてじゃない人もいると思いますが、
今から書こうとしているのは、僕・和佐大輔の数奇な人生の物語
です。
「お前の身の上話なんて誰も聞きたくない!」
と思うかもしれませんが、ちょっと待ってください。
「聞く価値がない」と言い切るのはまだ早いと思います。
1ページでも読めばきっと興味が出てくるんじゃないかと思うので、
ぜひ続きを読んでみてください。
“17歳で1億円”という
キャッチフ
嬉しいことにそれから13年間連続で僕のビジネスは右肩上がりに
成長し続けています。
しかし、決して平坦な道のりではありませんでした。
僕が16歳で「インターネットビジネスで生きていくんだ」と
決意した理由は、
そもそも僕には
「普通の人のように生きていく」という選択肢が
残されていなかったからでした。
12歳で半身不随になり、
自分1人では食事すらできない
体になってしまった。
僕は12歳の時に事故に遭い、首の骨を骨折して、それ以来、
「胸から上しか動かない体」になってしまったのです。
僕の体は下半身が動かないだけではなく、手も動かなくなって
しまったので、自分で食事をすることも、自分で車椅子を漕ぐ
こともほとんどできません。
腹筋・背筋も自分では動かすことはできないので、
体幹はゆるゆるです。
だから急ブレーキをかけられたり、ちょっとした坂道でも、
© 2019 Daisuke Wasa
前のめりに倒れてしまいます。
左が怪我をして1年目の写真で、右が小学校3年生ぐらいの写真です
パソコンは「口にくわえた割り箸」で
操作しています(左の画像のように)。
当然、普通に働くことなんてできません。
そんな僕がこの社会で生きていこうと
思ったら、当時は「障害者年金に頼って
細々と生きていく」という道しか残されては
いませんでした。
親の年金と僕の年金をあてにする生活。
まあ、逆に言えば年金があてにできるのであれば、
質素な暮らしならできたかもしれません。
3人分の年金を合わせればそこそこの金額になっていたでしょう。
© 2019 Daisuke Wasa
しかし、残念ながら僕が怪我をして障害を負った直後から
僕の家では不運が続き・・・
借金5000万円を抱えながら
障害者を養わなければならないという
無理ゲーを強いられることに
父親の会社は経営不振で借金まみれ、
兄弟の1人も友達の保証人になって借金まみれ、
借金は総額で5000万円はくだらない額にまで膨らんでいました。
そんな状況で、
「さらに僕という障害者を抱えて生きていく」
という、無理ゲーを強いられていたわけです。
それでも当時、笑って強く生きていた両親には、
今さらながら感謝しかありません。
さあ、どうしたものか、と。
高校生だった僕にとっては、
高校生活はまさに人生のカウントダウンでした。
高校を卒業してしまったらいよいよ行き場を失ってしまう。
© 2019 Daisuke Wasa
就職もできない、進学もできない、かといって施設にも入れない
(そのぐらい僕の障害は重いので)、
でも、生きていかなければならない。
下手をすると家族で首をくくることになりかねない状態でした。
八方塞がりとはまさにこのことです。
「マジで人生詰んでるなぁ・・・」
なんてことを本気で考えるようになった、
ちょうどそのタイミングで僕は運よくインターネットビジネスと
出会いました。
そして奇跡が起こったのです。
「インターネットでお金を稼ぐことができる」
この事実を最初に知ったときは衝撃でした。
普通の仕事に就くという選択肢がなかった僕にとっては、
もうこれしか生きていく道はありませんでした。
だから無我夢中でインターネットビジネスに熱中し、
ヤフオクをやったり、ブログを書いたり、アフィリエイトをしたり、
当時の僕にできることは片っ端からなんでも試しました。
すると、収入が5万円、10万円、20万円、50万円と
© 2019 Daisuke Wasa
増えていき、ついには月1000万円という桁違いの金額を
稼げるようになったのです。
そして僕は17歳のうちに1億円を稼ぎ、
家族の借金を完済することに成功しました。
17歳で体が不自由で、学歴も、すごい能力も、人脈も、知識も、
経験も、資金力も、およそビジネスで成功するために必要だと
思われるあらゆる要素が「足りていなかった」僕が、
たった1年で年間1億円を稼ぐようになったのです。
まさに奇跡のようでした。
「これでなんとか生きていける・・・
 家族で首をくくることもなくなった」
そんな安心感と共に、
「インターネットの世界なら、
 こんな自分にもまだまだ可能性があるんだ。
 いや、インターネットの世界なら体の障害も
 学歴も、年齢も、知識や経験も関係なく、
 誰にでも平等にチャンスはあるんだ!」
という希望が湧いてきました。
そして僕はますますインターネットビジネスに夢中になりました。
© 2019 Daisuke Wasa
自分の頭を使って考えること、
アイディアを実際に試してみること、
人からノウハウを学ぶこと、
ビジネスを通して人と関わること、
その全てが楽しくてしょうがなかったのです。
そして、
“インターネットを使えば
簡単に、誰でもお金を稼げる”
ということがわかったのです。
「お金を稼ぐ」というのは、究極的にシンプルに言えば、
「ニーズを見つけて、ニーズに応える」
これだけでした。
インターネットを使えばこれがとてもスムーズに、
簡単にできました。
例えば、僕はヤフオクでとあるゲームの「設定代行」を
やっていた時期がありますが、そのゲームは設定がかなり
難しいものだったので、設定代行にニーズがあったんです。
当時の僕には時間だけはあったので、自力で設定方法を調べて、
やり方はわかっていました。
© 2019 Daisuke Wasa
試しにヤフオクに出品してみると驚くことに、
月に20万円も売れたのです。
当時はまだ高校に通っていたので、
授業中に携帯で落札と入金の確認をしてニヤニヤするのが
僕の日課になりました。
まだスマホは存在すらしていない時代でした。
こんな風に
“誰かのニーズを見つけて”
“そのニーズに応えること”
ができれば、インターネットでお金を稼げることがわかりました。
まさに錬金術だと思いました。
あとはこの応用の繰り返しでした。
・ニーズのあるものを売る
・ニーズのある情報を売る
・ニーズのあるサービスを売る
何を売るにしても「ニーズ」に応えていけば、
必ずある程度は売れるということがわかったのです。
あとは、
© 2019 Daisuke Wasa
「ニーズが強いかどうか?」
「ニーズを持つ人が多いかどうか?」
だけの問題です。
当然、ニーズが強くて対象人数が多いものに応えた方が
売上が大きくなるので、
この頃からようやく「リサーチ」ということを始めました。
そして、
「どうせ売るなら、
 同じ人に何回も買ってもらった方がいい」
ということに気がついてからは、まだまだ未熟でしたが、
DRM(ダイレクト・レスポンス・マーケティング)の真似事を
やるようになりました。
すると、みるみる売上が大きくなったのです。
さらに、
「同じ人に何回も買ってもらおうと思ったら、
 信頼関係が一番大事だ」
ということに気づいてからは、メルマガを始めて、
定期的に役に立つ情報やモチベーションが上がるような
面白い情報を発信するようになり、
© 2019 Daisuke Wasa
1.人を集める
2.教育する(ブランディングする)
3.販売する
という、DRMの黄金ルールを自然と無自覚にやるようになって
いきました。
ヤフオクから始まり、ブログの情報発信になり、メルマガを始め、
そしてコンテンツビジネスをやるようになって・・・
気がつけば、
メルマガ読者3万人、
年間1億円を稼ぐ17歳
になっていたのです。
高校を中退してから1年とちょっとが過ぎた頃だったと思います。
その頃の僕は無敵状態でした。
だって、
「読者のニーズに応える」
たったこれだけでお金がジャンジャン入ってくるわけですから。
ブログアフィリエイトのやり方をまとめた
© 2019 Daisuke Wasa
「ブログ解体新書」というマニュアルが
3ヶ月で3000万円以上売れて、
その次には僕のマーケティング戦略を教えるための
「情報起業スパルタ強化合宿」というものを募集したら
400人から申込みが殺到して(参加費は36万円)
ブログ解体新書をリニューアルした「真・ブログ解体新書」は、
2ヶ月足らずの販売期間で4500万円以上
売れました。
これが全て2006年(17歳当時)の最初の半年間ぐらいで
立て続けに起こったのです。
そりゃあ、調子に乗りますよね。
17歳だもの(笑)
調子に乗りまくっていた僕は、
「僕以上に効率よくお金を稼いでいる
17歳なんて世界中探しても他にいない。
それどころか大人でもここまで
できてるやつは見たことがない。
僕が間違いなく最強だ。」
© 2019 Daisuke Wasa
と思うようになっていました。
今思うと本当に生意気なクソガキだったと思います(苦笑)
でも、本当に1日2~3時間平均の労働時間で1億円が稼げて
しまうわけですから、そう思うのもしょうがないですよね?
そう。
ニーズに応えてさえいれば、売れるんだ・・・
ニーズに応えさえすれば・・・
ニーズに・・・応えさえすれば・・・
僕はなぜか急に虚しくなりました。
僕のところに集まっているお客さんや、
当時の仲間たちは、結局、
“僕という人間に価値や魅力を感じている”わけではなくて、
僕がニーズに応えてくれるから集まっているだけなんだと。
勝手に怒りと不安を覚えたのです。
「俺はお前らのドラえもんじゃねぇぞ!」
「いつかは離れていくんだろ!」
© 2019 Daisuke Wasa
と。
自分から人気を集めようとして、
自分からニーズに応えておいて、
急に逆ギレしだすなんて、
本当にわがままで自分勝手な人間だと思いますが(苦笑)
当時は本当に悩んだのです。
人間は本当に欲深い生き物ですね。
お金がない時にはお金に悩み、
お金と時間があれば人生の意味に悩む。
僕って何のために生きてるんだろう、と。
理想と現実の狭間で苦しむ日々
でも、そうは言っても僕の生活は、
他の健常者と比べると多くのコストがかかります。
介護してくれる家族が必要ですから。
それに僕が自分の人生に疑問を感じている時にはもうすでに僕は、
和佐家の大黒柱と化していました。
僕がいきなり無収入になったら、一家も終わりです。
© 2019 Daisuke Wasa
勝手に逃げ出すわけにもいかない。
だから生活を続けるためには、
疑問を感じながらも読者のニーズに応え続けなければ
ならなかったのです。
そんな時、またタイミングよく、
僕の感じていた疑問や違和感を壊してくれる人と出会ったのです。
僕を絶望から救ってくれた救世主
それが、木坂さんでした。
木坂さんにはとあるご縁があって、「スパルタ強化合宿」の
裏講師として無償で協力をしてもらっていたのですが、
ちょうど一番調子に乗っていて、
「他の大人たち(起業家たち)」を小馬鹿にしていた頃の僕が
初めて心の底から、
「こいつは本当にすごい!」
と思えた人でした。
そのぐらい、当時の木坂さんの知識量とクオリティは、
日本の他の起業家たちと比べると、群を抜いて圧倒的だったのです。
当時は木坂さんは英語のビジネスをしていたと思います。
© 2019 Daisuke Wasa
僕は、
「ああ、こんな人が世の中にはいるんだな」
と。
「ニーズに応えていれば金なんていくらでも稼げるぜ!」
と、調子に乗っていた自分が恥ずかしくなりました。
世界は広い。
そして同時に、世界は深いことを知りました。
僕が生きていた世界というのは、ものすごく狭く、ものすごく
薄っぺらい世界だったのです。
ドラクエで言えば、スタート地点の周辺でスライム狩りをして
強くなったと勘違いしていただけだということがわかりました。
そして木坂さんと接しているうちに、
「もしかすると
もっと自分の好きなように生きても
大丈夫なんじゃないか?」
と思えるようになったのです。
少なくとも木坂さんは
© 2019 Daisuke Wasa
「お客さんのニーズに応えるために(商品を売るために)、
 お客さんの顔色を伺って、
 自分の信念を蔑ろにする」
というやり方ではなく、
もっと木坂さんの好きなように、
自由にビジネスを楽しんでいました。
そして2006年12月に僕は、
もう全部ぶっ壊してやろう。
全部リセットだ!
そう思って、3万部あったメルマガを廃刊することを決めたのです。
そしてメルマガの廃刊と同時に、
「情報起業解体新書」
という、僕の経験を全て凝縮させた、
当時の僕が出せる最高の情報をまとめたレポートを
完全無料で配ることにしました。
これは僕からの恩返しであり、挑戦でもありました。
僕の人生に光を灯してくれたインターネットビジネスの
世界に対して、僕が学んできたこと、僕が感じていた違和感、
そーゆーものを全部正直に出し切ることで、
© 2019 Daisuke Wasa
何かが変わるんじゃないかと思ったのです。
正直怖かったです。
だって、僕の持っているものを全部、無料で出し尽くしたわけ
ですから。
「これを出したらもう売るものがない」とも思いました。
それに、当時の業界に対する強いアンチテーゼ・怒りも
打ち出していたので、誰かに怒られたり、批判されるんじゃ
ないかとも思いました。
そして実際、これには本当に多くの人から反響がありました。
その結果、僕の予想を超えてシェアに次ぐシェアが起こり、
たった1週間の配信期間にもかかわらず、
1万4000人もの人がダウンロードしてくれる事態になったの
です。
アフィリエイトや広告を一切使うことなく、
純粋な口コミだけで1万4000人がダウンロードしてくれました。
あまりの反響に知り合いからも、
「大丈夫か?」
「もしかしてあの詐欺師って俺のことか?」
「お前、何偉そうなこと言ってんだ!」
と、色々なことを言われました。
© 2019 Daisuke Wasa
でも、僕の本音に1万4000人もの人が反応してくれて、
応援や感謝のメールの方が批判よりも
100倍以上多かったことの方が嬉しかった。
この時、
「自分が好きなようにやっても
 共感してくれる人はいる。
むしろ、もっと自分を出した方がいいんだ。」
ということがわかったのです。
自分の信念や気持ちは横に置いて、
徹底的にニーズに応えることがビジネスだと思っていた
僕にとっては本当に衝撃的なパラダイムシフトでした。
そこからは木坂さんと一緒に「ICC(Insiders Coaching Club)」
というコンサルティングサービスをスタートさせて、
6ヶ月で50万円という高額な参加費にもかかわらず、
400人を超える申込みが殺到したり、
(第2期も合わせると合計800人から申込みがありました)
ICCの期間中に作った「ネットビジネス大百科」という教材が
いきなり5000本売れて、2007年の終わりには1万本を
余裕で突破したりと、
また奇跡のようなことが次々と起こりました。
© 2019 Daisuke Wasa
その後、「ネットビジネス大百科」は、
累計で5万本を超えるメガヒットコンテンツになりました。
そして、
ついに来る木坂さんとの別れ
2007年は僕にとってはリスタートの1年であり、
木坂さんと一緒に駆け抜けた怒涛の1年間でした。
毎日9時間のコンサルをこなし、同時に教材やメルマガを作り、
月に1回はセミナーをやる。
僕の人生で1番忙しかった1年間だったと思います。
本当に大変だった。
そして2008年の春、ついにICC第2期の終わりと共に、
僕と木坂さんの共闘関係は一旦終わりを迎えたのです。
理由としては、
「お互いに自分のやりたいようにやってみよう」
ということでした。
巷では「和佐・木坂不仲説」も出ましたが(笑)
全くそんなことはありませんでした。
© 2019 Daisuke Wasa
そういえば当時は、
「和佐大輔は実は歩ける説」とか、
「和佐大輔は人形で、実は裏で和佐兄が操っている説」とか、
「和佐大輔は存在しない説」
なんかも出てたので、噂というのは恐ろしいものです(苦笑)
僕が木坂さんと別れてからまず最初にやったことは、
「僕をあなたの好きなように使ってください」
という、当時の僕は斬新だと考えていた
コンサルティングサービスの募集でした。
でも、今思えばまた、
「“お客さんのニーズに応えるために
 お客さんの顔色を伺う”」
という、僕の悪い癖が出てしまっていたのです。
僕は末っ子に生まれたので、自分がやりたいことよりも、
周りの人間がやりたいことに合わせて
うまく立ち回るということが得意だったのです。
その結果・・・
© 2019 Daisuke Wasa
稼ぐお金と反比例してすり減っていく心
正直、お金は儲かりましたよ。
売上は相変わらず1億円を超えていましたし、右肩上がりでした。
2009年にはほぼ毎月のペースで新しいセミナーをやって、
僕の知識と経験を「コンテンツ化」して、商品化しました。
これも当然のように売れました。
だってニーズに応えてますから。
そして2010年にはそれらのコンテンツを自動で売るための
ステップメールを作ったり、通信講座ビジネスを始めました。
これも当然のように売れました。
だってニーズに応えてますから。
「ニーズを見つけて、ニーズに応えれば売れる」
まさにこの法則通りでした。
アフィリエイターに紹介してもらうための無料オファーを作ったり、
某・無料レポートスタンドと提携したりして、
とにかく新規のお客さんの流入を増やしました。
毎月1500人以上は新規見込み客が増えていたと思います。
そして新規の人はステップメールに登録されて、
© 2019 Daisuke Wasa
自動的に商品がセールスされていく。
集客もほったらかし(アフィリエイターと提携先がやってくれる)、
セールスもほったらかし(ステップメールがやってくれる)、
しかもそれ以外にも通信講座で毎月安定して数百万円が入ってく
る・・・
まるで絵に描いたかのような「成功」でした。
しかし、不思議なことに、入金されるお金の大きさに
反比例するように、僕の心はすり減って行っていたの
です。
今だから告白できますが、当時の僕は、商品を売ることばかり考え、
いつもお客さんの顔色を伺い、常に、
「何がウケるのか?」
「何が売れるのか?」
「何が流行るのか?」
ばかりを考えていました。
「やりたいこと」よりも常に「売れること」が先行していたのです。
「自由に生きていく」と口では言いながらも、
実は全く自由ではありませんでした。
まるでビジネスの奴隷になったような気分でした。
© 2019 Daisuke Wasa
その一方で木坂さんは・・・
その一方で、僕と別れた後の木坂さんはというと、
僕と出会った時以上に、
「自分の好きなことをして自由に生きていた」
のです。
例えば、当時の木坂さんは「ビジネスを教える」とか、
「コピーライティングを教える」という、
一番ニーズがありそうなことは一切やらずに、謎の、
「哲学を学ぶセミナー」とか、
「宗教を学ぶセミナー」とか、
「スピリチュアルを解明するセミナー」とか、
とてもじゃないけどニーズがあるとは思えないようなこと
ばかりやっていたのです。
ある時は、
「神様セミナー」
「人間セミナー」
という、めちゃくちゃ怪しいセミナーを、
最上位コースの内容に入れていたこともあります
(参加費は確か30~40万円ぐらいだったと思います)。
© 2019 Daisuke Wasa
誰にニーズがあるんだ?と(笑)
だって、木坂さんのメルマガの読者の9割は
「ネットビジネス大百科」から集まっている人達だったので、
もっとビジネスの情報に興味があるはずなんです。
でも木坂さんは、
「俺はそんなの興味ない。面白くない。」
と言って、頑なに変なセミナーばかり募集していました。
しかもそれが毎回、満席になっている。
僕はそんな木坂さんを見て、正直、
「木坂さんのやっていることは宗教だ」
と思っていた時期もありました。
だって話が抽象的すぎて、
僕のやっていることとは真逆だったわけですから。
僕が、
「売れるコピーライティング」とか、
「最新の広告戦略」とか、
「今流行っている集客方法」
など、実用的でニーズがありそうな話をしている時に、
© 2019 Daisuke Wasa
木坂さんは、
「なぜテロが起こるのか?」
「愛するとはどういうことか?」
「西洋哲学の歴史」
みたいな、抽象的でニーズがなさそうな話をしている。
僕が、
「17歳で1億円稼ぎました」
と、必死に宣伝している時に、木坂さんは、
「哲学を学べば人生が豊かになるよ」
と言って、もはや宣伝活動すらしていなかった。
それでも50万円平均の高額なセミナーが毎回飛ぶように売れて、
毎回満員になっていたのです。
客観的に見れば僕の方がお客さんのニーズに応えているはずなのに、
木坂さんのセミナーの方が圧倒的に人気が高い。
「なんでだ!」
僕はニーズに応えるのに必死なのに、
木坂さんは好きなことをやっていて人気・・・
© 2019 Daisuke Wasa
なぜ木坂さんは好きなことをやって
人気もあるのに、僕はニーズに必死で
応えても“そこそこ”なのか?
僕はその理由を、
「あれは宗教だから、みんな洗脳されて、
 お布施に来ているだけなんだ。」
と考えていました。
というよりも、そうとしか理解ができなかったのです。
僕は木坂さんが好きだし、
木坂さんのセミナーはめちゃくちゃ面白いと思うけど、
人気の理由を「宗教」という文脈以外で説明ができなかったのです。
だから、今だから言えますが、
少しだけ木坂さんを嫌悪したこともありました。
もしかすると僕が間違っているのか・・・?
こうやって僕が色々な葛藤を繰り返している最中、
2011年3月11日に
大震災が起こりました。
© 2019 Daisuke Wasa
僕は衝撃を受けました。
大震災が起こって、僕が真っ先に考えたのは、
被災地の被害者の心配ではなく、
「僕と僕の家族の心配」
でした。
当時は「日本が終わるかもしれない」という空気だったので、
僕はどうしていいかわからなくなったのです。
仮に日本が経済破綻してしまったり、
あるいは僕ら家族が海外に逃げ出さなければならないような
事態になってしまったら、
「僕はまた家族のお荷物に逆戻り」
だと思ったのです。
僕がお金を稼いで調子に乗っていられるのは、
この日本という国が安定しているからであって、
その足元が崩れ去ったとしたら、
僕には何もできない。
本当に無力だ。
そう感じた時に、
© 2019 Daisuke Wasa
なおさら僕のやっていることは無意味に思えたのです。
お金は儲かるけど、ただそれだけのビジネス。
儲かる金額と反比例して心がすり減るビジネス。
震災を経験した僕は、
自分のビジネスにますます意味が見出せなくなっていき、
ますます心が苦しくなっていきました。
だから・・・
「もっと人の人生と深く関わりたい」
当時の僕はそう感じていました。
表面的なニーズに応えるだけじゃなくて、もっと深い部分で
人と深く繋がって、もしも足場が崩れたとしても、あるいは、
僕が死んだとしても、
「生きててよかった」
と、心から思えるように。
もっと言えば、僕が死んだ時に、
「和佐さん、生まれてきてくれてありがとう」
© 2019 Daisuke Wasa
と、誰かに言われる生き方をしたいと思ったのです。
お客さんの顔色を伺ってニーズに応えていくだけの人生で、
本当に死ぬ時に後悔はしないのか?
本当に誰かの記憶に残るのか?と。
僕はそれから自分なりに、
自分の人生のあり方を変えることにしました。
「もっと人間の深い部分を理解しよう。
 もっと他人と深く関わろう。」
そう思いながら、相棒の原田翔太と一緒に
「創造的破壊プロジェクト」をやったり、
もう1人の相棒の久米本純と
「アノマリー」という企画をやったり、
さらにもう1人の相棒の三浦洋之と
「物語プロジェクト」をやったりしました。
2011年~2013年の間というのは、
僕にとってはニーズに応えるだけではない、
別の形の人間関係を模索した2年間でした。
とにかく「お金“だけ”」を追い求めるビジネスから
卒業したかった。
そうして僕の「お客さんとの関わり方」は、
© 2019 Daisuke Wasa
お客さんとして一線を引いて、
「払ってもらった金額の分だけ価値を提供する」という、
ドライでビジネスライクな関わり方ではなく、
お客さんを「仲間」だと考えて、
「金額に関係なく可能な限りの価値を提供する」という、
スタンスの関わり方に変わっていったのです。
そして自分の中で新しいスタンスが馴染み始めたちょうどその頃、
木坂さんが募集したセミナーが僕の人生をハッキリと変えたの
でした。
僕の人生をハッキリと変えたセミナー
2013年の年始に開催された「Stay Gold」というセミナーで、
木坂さんはハッキリと、
「これからの時代はコミュニティの時代になる」
と話していました。
この時、僕の中でずっとモヤモヤしていた、
「なぜ木坂さんは、お客さんの顔色を伺わずに
 好きなようにビジネスをやっているのに
 あんなに人気があるのか?」
という謎の答えがわかったのです。
© 2019 Daisuke Wasa
木坂さんがやっていたのは“お金儲け”ではなく、
“コミュニティ”だったんだ、と。
コミュニティ化するビジネス
例えば、最近では「ユーチューバー」という存在が当たり前に
なってきましたが、彼らは最近、広告収入だけではなく、
自分たちで独自のマネタイズをしています。
・グッズ販売
・投げ銭
・ファンクラブ
などですが、
例えば「レペゼン地球」というユーチューバーは、
1回のライブ配信(LINE LIVE)で100万円以上の収益を
受け取っています。
© 2019 Daisuke Wasa
たった1時間程度のライブ配信で100万円です。
これは「投げ銭」と「広告収入」の合わせ技になるんですが、
例えばファンの人たちがライブ配信中に1000円とか、
2000円相当のギフトを配信者に贈るわけです。
一人ひとりの金額は小さいですが(最高で5万円)
チリも積もれば山となるわけで、
レペゼン地球のライブ配信は1回に30万人以上が見ているので、
チリ積もが信じられないような金額になるのです。
YouTubeの場合は視聴者は「見るだけ」で、お金を直接払う
ことはありませんよね?
でも、ライブ配信の場合は視聴者が直接お金を払って、
配信者にギフトを贈っています。
じゃあ、
・ギフトを贈る人に何かメリットはあるのか?
・具体的な対価は受け取っているのか?
ということですが、基本的には何もありません。
つまり、
「レペゼン地球が好きだからギフトを贈っている」
ということになるのです。
© 2019 Daisuke Wasa
他にも、「富士葵」というバーチャルユーチューバーがいますが、
彼女が立ち上げたクラウドファンディングは驚きの、
「もっと可愛くなりたい」
というものでした。
しかし富士葵ちゃんはバーチャルユーチューバーですから、
そもそも、ヴィジュアルはCGです。
つまりこの「CG」を改善するための費用を
クラウドファンディングで募ったのです。
すると驚くことに集まった金額は、まさかの
2282万円
© 2019 Daisuke Wasa
これもレペゼン地球と同じで、
支援した人には特にメリットがあるわけではありませんが、
「富士葵が好きだから支援する」
という人がそれだけ多かったのです。
また、何かと話題のキングコング西野
さんも、今や日本一巨大なオンライン
サロンのオーナーです。
参加者は1万9000人越え。
このサロンに入ったことがある人なら
分かると思いますが、彼のサロンも、
彼の本も、めちゃくちゃ勉強になると
いうわけではありません。
むしろちゃんと勉強している人に
とっては、当たり前でしょと感じる内容もあるはずです。
それでも彼の世界観が好きだという人がたくさんいて、
その人たちがさらに口コミで彼のことを広めているのです。
だから1万9000人も集まってしまう。
これまでは何かの専門分野でプロフェッショナルな人が
ヒーローでしたが、今はもう
「共感できないプロ」よりも「共感できる素人」の方が
© 2019 Daisuke Wasa
圧倒的に成功しやすい時代になったのです。
こんな風に、今の時代を生きる人たちにとってはもう、
「具体的に役に立つ・メリットがあるから」
という理由でお金を払うのではなく、
「自分が好きだ・面白いと思うから」
という理由でお金を払うことのほうが
“むしろ当たり前”になってきています。
つまり、客観的に価値があるもの、ではなく、
自分が主観的に価値があると認めているものに、
みんな喜んでお金を払っているわけです。
木坂さんのビジネスもまさにこれと同じ原理で動いていました。
客観的なニーズに応えて、客観的な価値を売っているわけではなく、
木坂さんにしか提供できない価値を提供して、
それが好きな人が喜んでお金を払っているだけ。
一方で僕は、
客観的なニーズ・客観的な価値に必死に応えようとして、
逆に常に競争に晒されていました。
不毛な競争に晒され、必死に売ろう、売ろうとしていたので、
余計に僕は自分のやりたいことができなくなっていたのです。
© 2019 Daisuke Wasa
「コミュニティ」という視点で見れば、
これまで不思議でしょうがなかった
「好き勝手やっているのになぜか人気がある」
木坂さんのビジネスも何も不思議ではなかったのです。
好きなことをやって
自分らしく生きていく答えは
「コミュニティ」
答えはわかったものの、いきなり、
「自分の好きなことをやって、
 そのメッセージに共感する人を集めて、
 コミュニティを作れ」
と言われても、
自分のことよりも誰かのニーズに応え続けることの方が
体に染み付いている僕にとっては、逆にとても難しいことでした。
「自分が好きなことってなんだ?」
「自分らしさってなんだ?」
「伝えたいメッセージってなんだ?」と。
正直、あまり深く考えたことがありませんでした。
© 2019 Daisuke Wasa
もちろん、以前のビジネスと比べれば格段に好きなことが
やれていて、かつ、長期的に関係を続けていきたいと思える
仲間と出会える確率も上がっていました。
実際、僕は震災以降に出会った人たちと今でもチームを
組んでいますし、その輪はどんどん大きくなっています。
お客さんとの関わり方も随分と変わりました。
例えば、
「京都に舞妓さんのところに遊びに行くツアー」をやったり、
「ハワイでセミナーとマラソンに行く会」をやったり、
「毎月日本全国の津々浦々で美食を探求する会」をやったり、
「漫画セミナー」なんかもやりました。
とにかく誰かのニーズだけにに応えようとしていた頃に比べると、
かなり「好きなこと」に重心が置けるようにはなりました。
しかし、それでもまだハッキリと割り切ることはできなかったの
です。
「好きなことをやる」
「自分らしく生きる」
単純そうに見えて、僕にはとても難しいことでした。
特に、
「好きなこと“だけ”をやる」
© 2019 Daisuke Wasa
というのはとても苦手意識がありました。
でも最近になってようやく、
「別にバイブリッドでもいいんじゃないか?」
と思えるようになってきました。
というよりも、
「誰かのニーズに応えるということも、
 僕にとっては僕らしさの一部なんだ」
ということに気がついたのです。
こちとら生まれた時から末っ子をやってますから、
ニーズに応える生き方には筋金が入っていて、
もはやちょっとやそっとじゃ変えられない「個性」なのです。
だからニーズに応えることをきっぱりやめるんじゃなくて、
「僕が応援したいと思える人たち(好きな人たち)の
 ニーズに応えていく」
ということをやればいいんだと、開き直れたのです。
それまでの僕は「みんなのニーズに応えよう」としていたわけ
ですが、それは裏を返せば、
© 2019 Daisuke Wasa
「ニーズにさえ応えていれば文句を言われない」
「ニーズにさえ応えていれば最低限売れる」
という、逃げでもあったのです。
だから、好きなことをやるのが怖かった。
でも、逃げるのはやめにしました。
これがハッキリと形になったのは2015年頃からでしょうか。
木坂さんのセミナーを受けてから2年。
ようやく、僕も、
「好きなことで自分らしく生きていく」
ということの、
「自分なりの形」
にたどり着くことができたのです。
すると驚くことに・・・
自然体なのに売上が倍増する
という、現象が起こり始めたのです。
© 2019 Daisuke Wasa
具体的には、2015年からはほとんど「広告」に
お金をかけなくなり(アフィリエイターも含めて)、
それでも売上が右肩上がりに増えていきました。
広告費をほとんどかけていないので、
売上だけではなく、同時に利益も大きく増えました。
例えば2018年は、
たった700万円程度の広告費で売上2億円以上
を記録しています。
※この画像は僕のFacebook広告の管理画面の画像です。2018年
の1年間に約60,928ドル(約670万円)使っています。この他にも
少しだけTwitter広告に使っているので、2018年の広告費は合計
で約700万円でした。
© 2019 Daisuke Wasa
※こちらの画像は僕が管理している決済システムの売上明細ですが、
1年間の売上が1億4357万円あります。これにさらに別の決済シ
ステムのアカウントで数千万円、直接銀行振込で受け取っている売
上が数千万円あるので、合計すると2億円を軽く超えています。
お客さんのニーズに必死になって応えようと頑張っていた頃は、
なんとかお客さんを説得して、売ろう、売ろうとしていましたが、
今ではそんなに力まなくなりました。
力まなくても、僕のメッセージに共感してくれる人が自然
広告費は5分の1で、
売上は2倍、
利益は3倍以上。
信じられますか?
それまでは必死にお客さんのニーズを汲み取って、
それに応えるような商品を必死に用意して、
さらにお客さんを必死に説得して、
やっとの思いで商品を売っていたのに・・・
「コミュニティ」という原理でビジネスをやり始めたら、
必死に説得したり、必死にニーズを聞いたりしなくても、
自然と売れるような商品が作れて、自然と売れていったのです。
しかも、お金だけではなく、それまでは感じることがなかった、
「充実感」
や、
「一体感」
を強く感じるようになりました。
なるほど・・・これが僕が
やりたかったことだったんだ。
© 2019 Daisuke Wasa
僕は心からそう感じました。
「お金“だけ”」に囚われるのではなく、
「好きなこと“だけ”」に囚われるのでもなく、
その両方を自然体で両立させていく。
不可能だと思っていたことを可能にする伴は
「コミュニティ」だったのです。
かなり遠回りをしてしまいましたが、
ようやく、僕は本当に自分がやりたかったことができるように
なったのです。
そしてついに・・・
ようやく木坂さんと一緒に「ネットビジネス大百科」を
リニューアルすることになったのです。
ネットビジネス大百科2につづく…
© 2019 Daisuke Wasa

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