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安倍首相のマルタ訪問をきちんと報道してほしかった。日本のメディアの国家観や歴史観がクソすぎるよ。 ⇒昭和天皇が真っ先に訪れたマルタ島 - さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」




安倍晋三 平成29年5月28日
「大日本帝国海軍第二特務艦隊戦死者之墓」にお参りをいたしました。
第一次世界大戦中、第二特務艦隊は、ここマルタを基地として、船団護送のため働きました。ちょうど100年前です。駆逐艦「榊」が魚雷を受け大破、多数の乗員が命を落としました。
お墓には、遺骨や、遺灰が納められています。万感の思いを込め、御霊の平安をお祈りしました。
日本は、世界から信頼されていますと、申し上げました。日本はこれからも、国際協調に基づく、積極的平和主義を貫きます。墓前で、誓いました。

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日本の総理大臣として初めてマルタ島の帝国海軍の墓地をお参りされた。日本人として心より敬意を表したい。
その一方で、靖國神社には総理大臣として一度しか参拝されないのは誠に残念である。日本人として心のままに参拝できることを願っている。

日本人がほとんど知らない「マルタ島の墓碑」は拙ブログで何度か取り上げてきた。今の学校教育では第一次大戦が何であったのかをきちんと教えず、ましてこの時、日本が日英同盟で参戦して、世界から称賛されていたことも教えられることはない。

先人達が「日本人の誇り」をかけて戦ったこと、そして昭和天皇がここを真っ先に訪れたことを書いておきたい。

地中海にあるマルタ島。そのカルカーラの丘の英海軍墓地の一隅に「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」が建っている。

第一次大戦でドイツの潜水艦Uボートが地中海で無差別攻撃を決行したため、連合国の兵員輸送船の被害が激増していた。これに音をあげたイギリスは同盟国・日本に派遣を要請した。

日本は大戦当初、支那の青島やマリアナ諸島方面に展開するドイツ海軍への作戦もあり、艦艇を地中海に派遣する余裕はなかったが、連合国の輸送船を護衛するため、やむなく巡洋艦「明石」と駆逐艦8隻からなる「第二特務艦隊」を地中海に派遣した。

日本の艦隊が地中海に到着した頃、連合国の艦船被害は甚大であったため、帝国海軍は長期航海であったが休養なく直ちに護衛任務を要請された。任務は船舶の護衛と救助活動であった。

戦闘中の救助作業は自らも危険にさらされた。しかも多数の救助者が艦内に収容されると食料や水はたちまち底をついた。

日本兵は自分達の食糧や衣類や寝場所まで彼らに与え、自分達は空腹と不眠のまま任務を遂行した。

大正6年5月、帝国海軍の「榊」と「松」の駆逐艦2隻は、魚雷攻撃で沈没していく兵員輸送船「トランシルバニア号」の救援に駆けつけて、敵の潜水艦の目前で、敵と戦闘しながら、乗員約1,800名をも救助した。

これは欧米人の常識では奇跡であった。帰港したイタリアのサボナでは帝国海軍を英雄として大歓迎した。

また大正7年、駆逐艦「桃」と「樫」は、魚雷を受けて自力航行出来なくなったイギリス船「パングラス号」を不眠不休の3日3晩、戦闘しながら、潜水艦に襲撃される危険も恐れず同船を曳航してマルタに無事届けた。この快挙にマルタの町は感極まって「日の丸」を振って迎えた。




さらにドイツ潜水艦がイギリス船「カメロニアン号」に魚雷を発射。帝国海軍は発見が一瞬遅れたが駆逐艦が全力で突入して、自らが魚雷の犠牲となって輸送船を守った。

これらのことで帝国海軍は大きな信頼を得て世界中から称賛され、イギリスでは「地中海の守護神」と称えられ、イギリス国王は日本の将兵に勲章を授与し、英国議会では議会始まって以来、日本語で「バンザイ三唱」が行われた。

安倍総理が「ちょうど100年前」と指摘したのは、大正6(1917)年6月、任務中の駆逐艦「榊」がオーストリア=ハンガリー帝国の潜水艦Uボートの魚雷を受けて大破し、59名が戦死したことを言っている。

最終的に第二特務艦隊は78名が戦死した。しかし、この第二特務艦隊の栄誉と勇敢さが称えられ、大正7年にカルカーラの英海軍墓地内に大理石の墓碑が建立された。これが「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」である。

その後、第二次大戦で、このマルタ島はドイツ空軍の猛烈な攻撃にさらされ、この時の爆撃でこの墓碑の「大日」の文字が吹き飛ばされ破損した。

終戦後、マルタ島に訪れる日本人はほとんどなく、この墓碑は30年間壊れたままだったが、昭和46年2月、当時の自衛隊海上幕僚長の訪欧でマルタ島に立ち寄った時、あまりに破損がひどいので、外務省と協議して再建することにした。

昭和48年11月18日に復元され、イタリア大使館主催で除幕式が行われた。

この墓碑が再建されたことをお聞きになられた昭和天皇は大変お喜びになられた。

それは大正10年4月に皇太子であった昭和天皇が欧州にご訪問なされた時、真っ先に訪れたのがこのマルタ島で、この墓碑に御親拝され、花輪を供えて英霊を慰められたほど、昭和天皇には忘れることができないことにあったのではないか。

この時、皇太子(昭和天皇)を迎えたマルタの地では「日の丸」と「菊の御紋」で溢れかえっていたが、この意味することこそ日本人はよく知っておくべきである。




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