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文春砲❣連載「ルポ男児の性被害」第3回 元ジャニーズJr.二本樹顕理さん(39)が13歳当時の性被害を実名告発

《ジャニー氏がベッドに入ってくる感触で目が覚めた》元ジャニーズJr.二本樹顕理さん(39)が13歳当時の性被害を実名告発

連載「ルポ男児の性被害」第3回

17時間前

source : 文藝春秋 電子版オリジナル

genre : ニュース, 社会, 芸能

「日本ではそもそも男子の性被害を想定していないと感じます。ジャニーズのことも、都市伝説くらいに軽く考えていたのかも」――13歳のジャニーズJr.時代、故ジャニー喜多川氏から性被害を受けた二本樹顕理さん(39)は、長い間、強い自己嫌悪に苛まれ、一時は「もう死ぬしかない」と思いつめたという。どん底まで落ちた時は聖書に救いを求め、カウンセリングを受け、トラウマに向き合った。ジャニー氏死去の一報に触れた時、「ああ、これで少年たちを食い物にするような人物がこの世からいなくなったんだ」と安堵した。

これまで本連載では小中時代に教師から性暴力を受けたケースを取り上げたが、絶対的な力関係の下で被害に遭っている子どもが声を上げられないのは本件でも同じである。本件がさらに悪質なのは、犠牲の実態を知っても、周囲の大人たちが権力者に忖度し、見て見ぬふりを続けてきたことだ。性暴力の実情を長年取材するジャーナリストの秋山千佳氏による徹底取材第3弾。(「文藝春秋 電子版」連載第3回より一部を公開)

◆◆◆

1997年にアイドル雑誌の付録だったポスターがある。当時人気のあったジャニーズJr.の少年たちが上半身裸で身を寄せ合っている。下半身は写っておらず、彼らが一糸まとわず笑顔を振りまいているようにも見える一枚だ。

あどけない顔で納まっていた13歳の少年は、39歳になった今、打ち明ける。

「この頃はずっと嫌悪感がありました。ジャニーさんの性行為を受けたことによって仕事で優遇されるようになったんだと思って、強い自己嫌悪があった。そして、当時は性暴力だとは理解していなかったですけど『なんて汚い世界なんだ』と思っていました」

二本樹さん ©文藝春秋

二本樹顕理は、ジャニーズJr.として活動していた1990年代後半、ジャニーズ事務所創業者で前社長のジャニー喜多川(2019年死去)からの性被害を受けていた。被害は半年から1年ほどの間に、10回程度。それは退所後も、人生に長い影を落とすことになった。

KinKi Kidsのコンサートにいきなり出ることに

1983年に生まれた二本樹は、マイケル・ジャクソンが好きな小学生だった。母親とともに来日公演に行って、「自分も歌って踊れるアーティストになりたい」と夢見た。11歳頃から劇団に所属していたが、中学へ進むと、日本で歌って踊れるアーティストを養成する代表的存在だったジャニーズ事務所へと自ら履歴書を送った。

1996年夏。ジャニーズ事務所から電話があり、オーディションを受けることになった。母親に付き添われて六本木の会場へ行くと、最初に踊りのグループ審査があり、続いて面接を受けた。そのオーディションがジャニーとの出会いだった。見た目は「普通のおじさん」だったが、審査のやりとりを見ているうちに「ひょっとしてこの人がジャニーさんかな」と気づいた。

それから1カ月もたたないうちに、男性の声で電話がかかってきた。日時とともに「ここに来て」と伝えられた。

「KinKi Kidsさんの横浜アリーナでのコンサートでした。そこに私もいきなり出ることになって。KinKiさんがパフォーマンスをしている後ろに、Jr.たちが座るセットリストだったと思います。それで自分がオーディションに合格したことを知りました」

ジャニーズJr.時代のポスター。右上が二本樹さん

入所すると、Jr.のレッスンに参加するようになった。会場には必ずジャニーがいた。

「Jr.のいるところに常にジャニーさんがいるという感じで、日常的に接点がありました。ジャニーさんはレッスンの様子を見ていたり、Jr.と談話したりする。話の内容は他愛もない日常会話が中心でした。ジャニーさんは口数が多い方ではないし、怒鳴るようなこともありません。ただ、個人的には話しやすいとは言えなかったです。現場にいるすべての人が口答えせず、常に顔色を窺っているような緊迫した空気があったからです」

二本樹からしたら怖い振付師の男性も、ジャニーの前に出るとおとなしくなった。事務所社長の権威を目の当たりにするようだった。

もうひとつ当初から感じていたのが、ジャニーが自分の近くによく来ることだった。

「あそこの事務所の社長って同性愛者なんだよ」

「他の子より話しかけられたり、体が接触する感じで隣に座ってきたり肩を組んできたりという距離の近さはありました。ちょっと違和感はありましたけど、まあいいかと。こういう接触に対して抵抗しない子がどんどん“お気に入り”になっていくのかもしれません」

当時の二本樹はジャニーにまつわる性的な“噂”を知っていたのだろうか。

「入所時に、学校のジャニーズ好きな女子から『あそこの事務所の社長って同性愛者なんだよ』と聞かされました。ただ、当時の私は性的なことはまったくの未経験。それを聞かされても、男の人を好きな男の人という程度のイメージしか湧きませんでした」

入所して3カ月が経つ頃には、日々のスケジュールはジャニーズのレッスンや仕事で埋まるようになっていた。平日のレッスンは、学校が終わる夕方から始まり、午後10時までには解散ということになっていた。週1日ほど休みはあったが、土日にも仕事が入る。やがて後述するように、宿泊をジャニーから申し渡される日も出てくるようになる。

「建前上、未成年者は学業優先ということでしたが、子どもがこなすには無理がありましたね。授業中は仕事の疲労から寝てしまい、勉強についていけなくなって先生に怒られました。さらに芸能活動が同級生に知られていじめられるようにもなりました。がんばって学校に行っても、居場所がないんです。結果として不登校ぎみになっていきました。忙しいJr.の多くは同じような状況に直面していました」

折しも「Jr.黄金期」と呼ばれるブームが到来していた。従来、Jr.はデビュー前のレッスン生であり、バックダンサーが主な役割だった。しかし1990年代後半あたりからJr.全体が注目されるようになった。アイドル雑誌『Myojo 明星』ではJr.の大型企画が組まれるようになり、テレビでは冠番組『愛LOVEジュニア』(テレビ東京系)の放送が開始された。Jr.が表舞台に出る機会が飛躍的に増えていく時期にあったのだ。

もっとも、当時100人はいたというJr.全員が多忙だったわけではない。

「同じJr.でも、待機生と呼ばれる子たちがいるんです。たまにレッスンに呼ばれるくらいで、基本的に番組出演などはない。ダンスでも後方に置かれることが多かったです」

二本樹さん ©文藝春秋

先輩は「行ったらジャニーさんに食われるぞ」

秋が深まる11月頃の夜だった。

平日のレッスンの終わりに、二本樹はジャニーからこう声をかけられた。

「ユー、今夜泊まっていきなよ」

その言葉が“合宿所”と呼ばれる部屋に誘う決まり文句だということは、先輩たちから聞いていた。合宿所へ行くのを避けていた先輩からは、「行ったらジャニーさんに食われるぞ」とも忠告された。しかし二本樹の目には、合宿所へ行かないJr.と行くJr.では、明らかに露出機会に差があると映っていた。忠告してくれた先輩はなかなか活躍できていなかった。

二本樹はジャニーの誘いを「通過儀礼のようなもの」と受け止めたと振り返る。

レッスン後、同じ中学1年生のJr.と一緒にジャニーの車に乗ると、東京全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタルホテル東京)のツインルームへ連れていかれた。Jr.がそれぞれにあてがわれたベッドに入ると、ジャニーが消灯し、二本樹は一旦眠りに落ちた。

 深夜、ジャニーがベッドに入ってくる感触で目が覚めた。まったくの無言でマッサージとも愛撫ともつかないボディータッチが数十分続き、口にディープキスをされた。初めての性体験だった。そして陰部を弄られた後、オーラルセックスをされた。

「恐怖心もあって、体は硬直していました。頭の中だけが動いていて、ここで抵抗したらJr.としての自分は先がなくなるのかなとか考えていました」

体感としては1時間ほどで、行為が終わった。ジャニーは洗面所からタオルを取ってきて二本樹の体を拭き、歯磨きを済ませた後に再びベッドに潜りこんできた。そして二本樹を抱擁するとそのままの姿勢で朝まで眠った。

翌朝、一睡もできなかった二本樹に、ジャニーは1万円を渡した。「これで何か買いなよ。美味しいもの食べなよ」。前夜の出来事については一切口にしなかった。

以降、露出は増え、憧れのV6のバックにも

その日を境に、二本樹の露出は目に見えて増えた。テレビ出演、コンサート出演、雑誌の撮影……。憧れていたV6の後ろで踊れるようになった時は特に嬉しかった。

活躍している同世代のJr.たちとは、当たり前のように“通過儀礼”の話をした。

「Jr.同士の会話の中では、今日はジャニーさんにこんなことをされたとか、いかにターゲットにならないようにするかの策を練るとか、性行為に関する話題が普通に出ました」

二本樹が初めて被害に遭った夜に隣のベッドに寝ていたJr.からも、同じ日、二本樹が目を覚ます直前に被害に遭っていたと聞かされた。

複数人の話を聞くうち、自身と同じように受け身での被害が多いものの、別のパターンがあることも知った。

「ジャニーさんから特に気に入られている子だと、する側にもならないといけなかったと本人たちの口から聞きました。今思えばえぐい話もありました」

ただ、当時は、“えぐい話”を語る方も聞く方も抵抗がなかった。

「あまりにも常態化しすぎていて、皆、感覚が完全に麻痺していたと思います。少なくとも合宿所に行っているJr.は手を出されているだろうという共通認識がありました。皆が経験者なので、経験者同士という枠の中ではその話に触れることに抵抗がなくなるんです」

ローティーンの日常会話として異様だと今ならわかるが、多忙なJr.たちは学校や家庭などで別の感覚を養うことなく、「ジャニーズ一色の世界に生きていた」という。

二本樹自身は、両親に知られるのは後ろめたいと感じていた。

「子どもなりに、事務所の社長だから許されるのかなと思いながらも、大人が子どもにそういう行為をするのは悪いことだという認識はあったのでしょうね」

二本樹さん ©文藝春秋

頻繁に全日空ホテルなどの“合宿所”へ

最初の被害から半年から1年ほどの間、二本樹はジャニーから頻繁に、東京全日空ホテルや六本木アークヒルズの合宿所に泊まるよう言われた。

そのことは事務所スタッフも把握していた。

ジャニーは自身が送迎できない時、マネジャーに「今日このJr.は泊まりだから」と指示し、代わりに送り届けさせていたからだ。二本樹の自宅は都内にあり、レッスン後に電車で帰ろうと思えば帰れた。マネジャーはそれを知りながら、ジャニーの指示に従っていた。

中学生の二本樹は、その都度自分で自宅に電話し、外泊許可を取っていた。「親は親で、息子がジャニーズ事務所に入ってテレビなどに出るようになったことに舞い上がっていて、感覚が麻痺していたと思います」と二本樹は振り返る。

そして少なくとも10回程度、ジャニーからの性被害に遭った。初回と同じ流れで行為を受けた。そして翌朝、エレベーターの中や、車を降りる時に、1万円、多い時は2万円をさっと手渡してきた。仕事のギャラは親が管理する銀行口座への振込になっており、性行為の翌朝以外には現金を受取ることはなかった。

「当時既に、これは性行為の対価として渡されているんだなという認識はありました。13歳くらいだと1万円って大金じゃないですか。そんな大金を見せられて戸惑う感覚と、ジャニーさんと自分への嫌悪感。その両方がいつも湧きました」

次第に、テレビに出ても、ダンスでセンターになっても、喜べなくなっていった。

「上にはもっと活躍している子たちもいるけど、下には全然ポジションを取れない子たちもいる。その中で自分がマイクを持たせてもらえたり、いいポジションを確保したりできるのは、性行為をしているからだろうなという複雑な思いがありました。待機生の中にも明らかに実力ある子がいるんです。歌も踊りも上手でルックスもいい子なのに、合宿所に行かないことで前に出てこられない子が。事務所のカラーと合わなかったと言われればそれまでですが、基本的には、ジャニーさんに気に入られないと上に行けない世界でした」

性行為を拒んだJr.は…

二本樹が継続して被害に遭っていた時期、あるJr.が合宿所でジャニーに服を脱がされそうになり、抵抗して行為を止めさせたという話が出回った。しかしそれからその子を見かけることが減り、いつのまにか消えていった。

「やっぱり抵抗できないんだと思いました。性行為を拒んだらJr.として終わるんだ、と」

(敬称略、第3回前編より)

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