【あいさつ全文】「だんだんと実感わき寂しさ増している」安倍昭恵夫人・山口県・県民葬で思い話す
安倍元総理の県民葬が15日、山口県下関市で行われました。昭恵夫人は「あのような形で命を絶ち、きょうで100日を迎えた。信じられない思いの中で日々過ぎていき、先日は国葬を挙行して頂き、だんだんと実感が湧いてきて、本当に亡くなったのだと寂しさが増している。主人は山口県が大好きだった。役職について帰ることが少なくなったが、盆に帰って市民の方とのふれあいを楽しみにしていた。今回遺骨で帰ってきたのは残念でならない。主人が愛した山口県、私も大好き。この地域のために私も活動していきたい」と思いを述べました。
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安倍昭恵さんのあいさつの全文です。 本日は主人の県民葬を立派に挙行していただき、村岡知事、柳居県議会議長をはじめ、県関係者の皆様方には厚く御礼を申し上げます。また細田議長をはじめ、国会議員の先生方には大変お忙しい中、わざわざこの下関まで足を運んでいただきましたこと、ありがとうございました。地元の議員の皆様、市長・町長はじめ、主人がお世話になった多くの皆様方にご参列をいただき、また台湾からも遠くたくさんご参列をいただきました。主人も喜んでいることと思います。本当にありがとうございます。
7月8日に、そのような形で命を絶ちまして、今日でちょうど100か日を迎えました。信じられないような思いの中で、日々過ぎていき、それでも四十九日を迎え、先日は武道館で立派な国葬儀を挙行していただき、だんだんと私も実感が湧いてきて、本当にいなくなってしまったんだなと、寂しさが増してきているような日々でございます。 平成3年・1991年、主人の父・安倍晋太郎は膵臓がんのために志半ば、総理目前と言われながら亡くなりました。
主人と同じ67歳でございました。秘書をしていた主人はおそらく誰よりも無念さを感じていたことと思います。 その後、父の遺志を継いで政治家になる決意をしてこの下関に帰ってきて、毎日毎日多くの方に自分の思いを伝え、お願いをして回っておりました。 1991年という年は湾岸戦争があり、ソ連崩壊という激動の年でもありました。主人はそんな中で、政治家になる決意をして、そして未来は不変のものではなく、我々の努力によって作り上げていくという信念のもと、世界平和のために新しい秩序を、この日本が中心になって作っていかなくてはいけない、そんなことを語っておりました。
それは政治家になる前から最後まで一貫してたのではないかなというふうに思います。 主人を支えてくださったのは、本当にこの地元にいる皆様方でした。初めて選挙に出たときは志は高かったと思いますけれども、また父の秘書をしていたとはいえ、政治家としては全くの未知数で、30代という人間としてもまだまだ未熟だったと思いますが、主人を信じてずっと支えてきてくださいました。時に厳しいお言葉をかけていただくこともありましたけれども、おかげさまで主人が大きな政治家に育てていただけたんだろうなというふうに思っております。
ことあるごとに主人は、自分が東京でこうして安心して仕事ができるのは、地元で支えてくださる皆様方がいらっしゃるからだと口にしておりました。特に2007年・第一次政権、病気のために辞任することになったときは、突然総理を投げ出した無責任な男だと大変な非難を浴びることになり、私も本当に悔しい思いをしておりましたけれども、しばらくしてこの地元に帰ってくると多くの方に温かく迎えていただき、「晋三さんもう1回頑張りなさい」と励ましていただきました。主人にとりましては本当にどんなにか嬉しかったことだと思います。
そして、その後の2009年、自民党にとっては大変厳しい選挙でございましたけれども、今までにないような最高の得票率で主人は当選をさせていただきました。そのとき主人は再び地元の皆さんに、政治家として命を吹き込んでいただいたんだというふうに言っておりました。そしてもう一度政治家として頑張っていこうという決意を新たにしたのではないかなというふうに思っています。
その後、2012年に負けるかもしれないという総裁選挙に立候補したときも、本当に自民党が苦しいときに全力で応援してくださった皆様方への恩返しの気持ち、再び自民党に信頼を取り戻したい、 そんな思いで、負けてもいい何度でもチャレンジすると言って総裁選挙に出動いたしました。 その後7年8か月、総理大臣を務めることができたのも、本当にこの地元でお支えをいただいた皆様方のおかげと、主人に代わりまして厚くお礼を申し上げるところでございます。本当にありがとうございました。
主人は山口県が本当に大好きで、この下関・長門が大好きでした。役職についてだんだん帰ることが少なくなりましたけれども、それでも毎年お盆に帰って、お祭りや花火大会で市民の方と触れ合うことをとても楽しみにしていました。コロナでなかなか帰れないけれども、コロナが落ち着いたらゆっくり2人で帰って皆さんと語り合いあいたいねとそんな話もしておりましたが、6月末、江島先生の選挙の応援で帰ってきたのが最後となってしまいました。今回遺骨という形で帰ってきたのは本当に残念でなりませんけれども、国葬儀には各国から大勢の方たちにお越しをいただき、私に対しても本当に温かい弔意の言葉をいただきました。
一般献花においても、長い長い列ができて長時間、皆さん並んで献花をしてくださいました。きっと主人はそれを見て喜び、感謝をしていたのではないかなと思います。増上寺でのご挨拶のときに、吉田松陰先生の留魂録、主人が父の追悼文で書いたものを私は引用させていただきましたけれども、主人の67年本当に素晴らしい方たちとの多くの出会いがあり、多くの方に支えられて、そしてこの大好きな日本の国のために大きな仕事をさせていただいた、豊かな67年の人生であったと私は思っています。
主人が愛したこの山口県、私も本当に大好きです。これからも先ほど映像にも出ていましたけど、令和の地方のあり方、私もこの地域のためにこれから何かしら活動していきたいなというふうに思っていますので、皆様方には引き続きよろしくお願いを申し上げます。 母は94歳になりました。家では弔問に来られる方の対応等をしておりますけれども、残念ながらこの県民葬に参列することができませんでした。
長年お世話になりました皆様方に、くれぐれもよろしくお伝えしてほしいというふうに母からも言われてまいりました。本当にこれが最後なのかなというふうに思って、私はこの県民葬が終わると気が抜けてしまうのではないかなと思いますけど、本当にこのように皆様方に立派にお見送りをしていただきましたこと、改めて主人に代わりまして、お礼させていただき、私の喪主のご挨拶とさせていただきます。本当に本日はありがとうございました。
県民葬は海峡メッセ下関をメイン会場に執り行われ、約2000人が参列しました。午後2時から始まった式典では、昭恵夫人が安倍元総理の遺骨を抱えて入場。安倍元総理の在りし日の姿が上映されると、涙をおさえる参列者の姿もありました。 追悼の辞で葬儀委員長の村岡嗣政・山口県知事は「不動の信念と強いリーダーシップで日本の存在を高める姿を、誇らしく感じていた。安倍元総理はたくさんの人の心に、多くの種をまいていかれた。私たちがその種を握りしめ、悲しみを力に変え、それぞれの花を開かせることこそが、安倍元総理が願われていることではないかと感じている」と述べました。
式には自民党の萩生田光一政調会長、県選出の林芳正外務大臣ら約110人の国会議員が参列。式壇に花を手向けて、安倍元総理をしのびました。
テレビ山口