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【鎌倉殿の13人】クライマックス「承久の乱」へ 

【鎌倉殿の13人】クライマックス「承久の乱」へ 義時と後鳥羽上皇はなぜ対立したのか

 

 芸能

尾上松也

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は第38回まで放送が済んだ。最終回は12月18日の第48回。クライマックスは主人公・北条義時(小栗旬)と後鳥羽上皇(尾上松也)が戦う「承久の乱」(1221年)に違いない。史書を辿る。

超人的な存在だった後鳥羽上皇

「鎌倉殿――」の9日放送は出演陣が撮影の裏話などを明かすトークスペシャル。次回第39話から通常放送に戻る。

 残り10話であることを考えると、最後の見せ場は後鳥羽上皇と北条義時ら幕府が戦う「承久の乱」になりそう。

 この歴史上の大事件を起こした後鳥羽上皇とは、どんな人物だったのか。また、「承久の乱」はなぜ起きたのか。

 後鳥羽上皇が生まれたのは1180年。「壇ノ浦の戦い」(1185年)で海に沈んだ安徳天皇(相澤智咲)の異母弟で1184年に即位した。

 上皇となり院政を開始したのは土御門天皇が即位した1198年で19歳の時。「治天の君」となった。「天下を治める君」という意味で、皇室の当主を指す。

 尾上松也演じる「鎌倉殿――」の上皇は周囲に畏怖されているが、確かに傑出した人物だった。

 まず歌人として名高かった。1205年に成立した『新古今和歌集』も上皇が公家で歌人の藤原定家らに命じてつくらせた。

 天台宗僧侶・慈円による史論書『愚管抄』にはこう書かれている。「上皇の御所ではいつも和歌や詩の会が開かれていた」(『愚管抄』)。漢詩にも通じ、笛や琵琶の名人でもあった。あの時代の一流文化人だったわけだ。

 一方で武芸にも秀でていた。鎌倉時代の官吏・橘成季が編んだ説話集『古今著聞集』によると、交野八郎という強盗の取り締まりを、西面の武士(上皇直属の武士団)を従えて行い、琵琶湖の湖上で自ら捕らえた。交野はその際、こう語ったという。

「上皇が舟を漕ぐ櫂を、あたかも扇のごとく(軽々と)扱うのを見て、(抵抗する)気力が失せた」(『古今著聞集』)

「承久の乱」で幕府と対決することになったが、もとは源頼朝(大泉洋)一族と近かった。後鳥羽天皇(当時)に大姫(南沙良)が入内する計画があったのは「鎌倉殿――」第24話の通り。

 妹の三幡(東あさ美)も院政を敷き始めていた上皇への入内を目指し、こちらは実現直前だった。系図集『尊卑分脈』にはそうある。

 1199年、三幡が重い病気になると、上皇は院宣(上皇の命令)を下し、京の名医・丹波時長を鎌倉へ派遣したほど。だが、三幡も同年、病死した。

後鳥羽上皇と実朝の蜜月

 それでも上皇と頼朝一族の縁は続いた。1203年9月、上皇は12歳だった頼朝の次男・千幡を将軍に任じ、「実朝」の名前を与えた。また実朝の正室は上皇の従妹。1204年に京から鎌倉へ送った。

「将軍の妻に然るべき人の娘を嫁がせねばなるまいという話が出てきて、後鳥羽上皇の母方の叔父にあたり、七条院(上皇の母親)の弟である信清大納言が娘を何人もお持ちだったので、その中の13歳の娘をということになった」(『愚管抄』)

 公卿(上流貴族)だった坊門信清の娘である。「鎌倉殿――」での役名は千世(加藤小夏)となっている。

 和歌という共通の趣味もあったことから、上皇と実朝の関係はずっと極めて良好だった。実朝は上皇に臣従していた。

 その思いは実朝の和歌にも表れている。その1つがこれである。上皇を敬う気持ちがよく表れている。

「東の国にわがをれば 朝日さす藐姑射(はこや、上皇の御所)の山の陰となりにき(東国に私はおりますので、朝日が昇る上皇の御所の陰に入っています)」(1213年に成立したとされる実朝の歌集『金槐和歌集』)

 一方、実朝と正室の間にはずっと子供が生まれなかった。それでも実朝は側室を置こうとしなかった。上皇への気兼ねもあったのだろう。

 このため、政子は将軍家を存続させるべく、1218年に京で後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子(シルビア・グラブ)と会談する(『愚管抄』)

 上皇の皇子を次期将軍に迎えるための交渉だった。上皇側も内諾した。頼仁親王か雅成親王が実朝の次の将軍になるはずだった。

 すべてをぶち壊しにしたのは鎌倉・鶴岡八幡宮の別当(長官)だった公暁による実朝暗殺だ。1219年1月27日夜、同八幡宮でのことだった(鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』)。

 暗殺劇から約2週間後、政子は朝廷に対し将軍を迎えたいと要請し、藤原兼子も冷泉宮(頼仁)を将軍にするべく動くが、上皇が許さなかった。背景には実朝暗殺を許してしまった幕府への公家社会の不信感もあった(『愚管抄』)。

 政子が代わりに4代将軍として迎えたのは摂政や関白を歴任した九条道家の3男・三寅。後の藤原頼経である。1219年7月のことだった。当時2歳だったため、幕政は政子が取り仕切り、それを2代目執権の義時が補佐することになった。

実時の死後、上皇と義時ら幕府の関係はみるみる悪化する。端緒は同年3月。上皇は摂津国(現・大阪府北西、南西部と兵庫県東部)の荘園2つの地頭(租税徴収などに当たった管理者)を撤廃するよう求めたこと(『吾妻鏡』)

 もとは上皇の愛妾でこの荘園を与えられていた亀菊の訴えだった。これを義時は退けた。上皇は怒ったに違いない。

 同年7月にはもっと大きな事件が起きた。実朝政権の政所別当(政務官庁の長官)で、在京の大物御家人・源頼茂が、謀反を企てているという風聞があったため、上皇が追討の院宣を出す。すると頼茂は大内裏(皇居と諸官庁)に火を放ち、建物と宝の多くが焼けてしまった(『愚管抄』)

 上皇にとっては大損害である。そもそもの理由は幕府にあったものの、義時は再建に全く協力しようとしなかった。両者の溝が決定的になった。

「承久の乱」勃発

 1221年4月、ついに上皇は義時の排除に向けて動く。軍記物語『承久記』によると、京の城南寺に近隣の武士1000余騎を集めた。

 翌5月には京都守護(在京御家人の統率者)の伊賀光季を討つ。光季の妹は義時の継室・伊賀の方(役名・のえ、菊地凛子)である。同時に西日本の武士に対し、官宣旨(公文書)が出され、義時追討が命じられた。

 それとは別に三浦義村(山本耕史)や北条時房(瀬戸康史)ら幕府の有力者8人に向けて義時追討の院宣を出す準備が行われた。

 また上皇は在京御家人の抱き込みも図った。その1人が検非違使(京の警察)をしていた三浦胤義(岸田タツヤ)。義村の実弟である。

 義村への院宣が京から鎌倉に届く直前、胤義からの私的な書状が義村のところに来た。こう書かれていた。
「勅命に応じて義時を謀殺せよ、勲功の賞は申請の通りにする、と院(上皇)からの仰せを賜った」(『吾妻鏡』)

 胤義は上皇側に付いてしまった。状況は良くない。半面、この書状のお陰で義時たちは初期対応に成功する。院宣を持ってきた使者は取り押さえられた。

 政子と義時は上皇と戦うことを決意する。ただし、前代未聞のことだけに御家人たちは簡単には動かない。動揺しても不思議ではない。そもそも勝てるかどうか分からない。

 5月21日、政子が御家人たちの前で流れをガラリと変える演説を行う。

「皆、心を1つにして聞くように。これが最後の言葉である。故右大将軍(頼朝)が朝敵を征伐し、関東(幕府)を開設して以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山より高く、海より深い。ところが、今、逆臣の讒言によって、(朝廷は)正義でない綸旨を下された。名を惜しむ者たちは藤原秀康(上皇側の大将軍)、三浦胤義らを討ち取り、3代の将軍の遺産を完全に保つように。ただし(上皇の)院御所に参ろうと思うなら、今すぐ言明するように」(『吾妻鏡』)

 御家人たちの間からは泣き声が上がった。鎌倉が1つになった。

 翌22日、義時は嫡子・北条泰時(坂口健太郎)に僅かな兵を率いさせ、京へ攻め上がらせる。

「(泰時が)京都に進発す。従軍、18騎なり」(『吾妻鏡』)

 知恵者・大江広元(栗原英雄)らの考えで、敵を迎え討つのではなく、攻めに出た。その後、御家人たちが続々と泰時の後を追い、地方の武士も幕府軍に加わって、最終的に兵力は20万騎近くにも達した。

 頼朝に恩義を感じている武士は全国にいた。これも政子の演説が効いたと見るべきだろう。

 勝ち目がなくなった上皇は同6月15日、院宣を撤回。その上、この戦いは自らの意思ではなく、謀臣の企みであると釈明した。

 3年後の1224年6月、義時は急死する。61歳だった。

 直後、また揉め事が起こる。義時の次の執権の座を巡っての「伊賀氏事件」(同)である。3代目執権には実績も人望もある42歳の泰時が就くと見られていたが、義時の継室・伊賀の方は自分と義時の子である20歳の北条政村を据えようとした。将軍も女婿・一条実雅にやらせようと画策した(『吾妻鏡』)

 伊賀の方側は政村の烏帽子親(元服する時に烏帽子を被せた人)である三浦義村の抱き込みを図ったが、失敗に終わる。伊賀の方側の動きを察知した政子が、義村邸を訪ね、睨みを利かせたせいだ。

 義時は伊賀の方に毒殺されたという説が古くからある。はっきりしたことは分からない。伊賀の方は事件の発覚後、伊豆北条(現・静岡県伊豆の国市)に流された。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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