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愛国女性のつどい花時計「関東大震災で朝鮮人6千人虐殺」の嘘

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 99年前、大正12年(1923年)の91日、正午ちょっと前に突然、大地が揺れだしました。その様子は大地が波を打つようだった、と言われています。ちょうど食事の支度をしていた時間帯という事もあり、あっという間に火災が起きました。深川など、下町一帯が炎に包まれて、日が暮れても空が真っ赤に染まっていたそうです。まるで空襲のようだったことでしょう。死者は約10万人。この悲劇を風化させないように語り継いでいかなければならないと思います。

 「関東大震災」というと、朝鮮人が日本人の自警団に殺された、という話ばかりをメディアが取り上げます。東京に当時なぜ、大勢の朝鮮人がいたのか、という点からこの事件の背景を考える必要があります。1910年の日韓併合によって朝鮮は日本の一地方となりました。だから朝鮮人も自由に内地に入って来れた訳です。当時、好況にわいていた東京での高賃金の仕事を求めて多くの朝鮮人がやって来ました。しかし、その中には共産主義者も混じっていたのです。共産主義者による皇太子暗殺の計画があったとも言われています。政治家がテロに遭う事件もあり、国民の間に不安がじわりと広がっていたことが背景にあります。

 そんな世情不穏な時代のある日、関東大震災が勃発したのです。災害が起きて治安が悪化した時こそ、テロリストが暗躍します。それを警戒して自警団が組織されました。疑心暗鬼になった自警団の人たちが誤って無実の朝鮮人を殺してしまったことは皆無ではなかったでしょう。しかし、それは韓国側が今、主張している6千人などという人数ではなく、内務省が発表している231人でした。6千人という数字は当時、上海にあった大韓民国臨時政府が発行している新聞「独立新聞」の記事にあった数字です。この数字の根拠は今に至るまで、判明していません。

 今日も蒸し暑い一日でしたが、99年前の91日も暑い日でした。当時、東京市長だった永田秀次郎は役所の職員を動員して遺体の一人一人、氏名を確認して棺に入れるように命じていましたが遺体の腐敗が進んだため、やむを得ず死体の山にガソリンをかけて合同荼毘に付しました。腐敗した遺体から伝染病が広がることを恐れたのです。7年後の昭和5年(1930年)、永田秀次郎は退職金を投じて高野山の金剛峯寺に霊牌堂を建立しました。関東大震災の犠牲者10万5千人のうち、約半数の5万4700人分の名前が記された「関東震災殃死者簿」を霊牌堂に納めました。永田はこれを「一万年残すべし」という強い思いでタイルと和紙の二種類の名簿を作りました。この名簿は今も高野山奥の院にある「関東震災霊牌堂」の中にあります。

 永田秀次郎は俳人としても有名な人でした。俳号は青嵐でした。東京・両国の横網町公園には永田秀次郎が関東大震災との後、再建に奮い立つ市民の心意気に感激して詠んだ俳句「焼けて直ぐ 芽ぐむちからや 棕櫚の露」が刻まれた句碑があります。焦土になった土地にもすぐに棕櫚や蘇鉄が芽を吹いて、まるで春が戻ってきたような緑が見えたそうです。家族を失い、家を失った人たちが失意の中にも復興に向けて動き出した様子を詠んだ句です。

 永田秀次郎は第8代と第14代の東京市長でした。卓越した行政手腕もあり、のちに広田内閣の拓務大臣(1936年~1937年)、阿部内閣の鉄道大臣(1939年~1940年)を務めました。昭和17年(1942年)、陸軍軍政顧問として南洋諸島にいた時に疫病にかかり、翌年、東京で亡くなりました。享年68歳。

 関東大震災は今、聞いても体が震えるような大災害でしたが、危機の時に永田のような指導者に恵まれたことは不幸中の幸いでした。

 

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Source: 愛国女性のつどい花時計

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