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真正保守!「切り札は「ワクチン」ではなく「補償」だ」:三橋貴明

真正保守!「切り札は「ワクチン」ではなく「補償」だ」:三橋貴明

株式会社経世論研究所 講演・執筆依頼等、お仕事のご依頼はこちらから三橋貴明のツイッターはこちら人気ブログランキングに参加しています。チャンネルAJER更新しました。「アメリカの大転換と高圧経済」(前半)三橋貴明 AJER2020.7.5 令和の政策ピボット呼びかけ人に「ジャーナリスト 上島 嘉郎様」が加わって下さいました。また、メルマガ「令和ピボットニュース」が始まりました。皆様、是非とも、メルマガ登録を!

 

国家主導の産業政策は正しい 理由は不確実性を許容できるからだ!

[三橋TV第423回] 三橋貴明・高家望愛

 

 昨日、このまま「緊縮財政+疫病対策」が続き、やがて「補償なきロックダウン」といった狂った政策が法律化されると、「我々国民が、サバイバルのために、不法化する」 と、書きました。 

まさか、日本人がそんな・・・・、と、思われた方がいるかも知れませんが、歴史的に「先例」があるのですよ。 大東亜戦争に敗北した日本は、有史以来、最悪の食料危機に見舞われます。

1945年8月15日から47年にかけての日本は、「全国規模(特に、都市部)」で食料が不足し、国民が総飢餓状態に置かれてしまったのです。  日本が食料不足に陥った理由は、複数あります。まずは、都市化が進んだ状況でアメリカ軍の爆撃により鉄道網が麻痺し、食料輸送が滞る状況になったこと。  

加えて、都市部で闇市が勃興し、食料配給制を管轄した農林省と「闇市」との間で「市場競争」が生まれてしまったこと。農村部の農民からしてみれば、生産した農産物を政府に供出するよりも、闇市に流す方が儲かるという話になってしまったのです。 

また、戦争中に、生産した農産物を無理やりに供出された経験を持つ農民たちは、政府への不信感を持っていました。結果、45年の農村部からのコメの供出は、46年1月10に至っても、わずかに28%に落ち込みます。  しかも、タイミングが悪いことに、1945年のコメ生産は四十年ぶりの不作になってしまいました。水稲の作況指数は平年の三分の二水準に落ち込みました。 

さらに、戦争に敗北した日本は、朝鮮半島や台湾から不足分のコメを移入(輸入ではないです)することも不可能になりました。  食料不足は、東京では1946年5月頃がピークになり、都民は生きるために買い出し列車に乗り、農村で農産物を手に入れるため、財産を切り売りしなければなりませんでした。 

1946年の主要九都市の摂取カロリーは、一日一人あたり1721キロカロリー。この水準では、基礎代謝すら賄えない人が続出し、健康的な肉体の維持など到底不可能でした。とはいえ、闇市などからの食糧入手は、食糧管理法違反だったのです。 

1947年10月11、東京地方裁判所判事であった山口良忠氏が、食糧管理法を守り、「法の番人」として配給だけの生活を続け(事実上)餓死しました。 法律を守ると、生き残れないという状況が、実際に戦争敗北後にあったわけです。多くの日本国民は、サバイバルのために法律(食管法)を破りました。  無論、上記は敗戦後の食糧不足は、「供給能力不足」続きをみる

『著作権保護のため、記事の一部のみ表示されております。』

Source: 三橋貴明氏ブログ

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