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ウソ慰安婦映画に茅ケ崎市が後援!市長は急死!抗議殺到・朴壽南や玉善の嘘

ドキュメンタリー映画『沈黙-立ち上がる慰安婦』 反日ウソ映画
左:監督(マジキチ反日異常者)の朴壽南(パク・スナム)、右:当初は「朝鮮人男2人に拉致された」と証言していた嘘吐き婆の李玉善(イ・オクソン)
反日ウソ映画 「沈黙 立ち上がる慰安婦」

朴壽南 監督 「 沈黙 立ち上がる慰安婦 」 パンフレット&チラシ _パンフレット&チラシ表
朴壽南 監督 「 沈黙 立ち上がる慰安婦 」 パンフレット&チラシ

http://www.sankei.com/world/news/181011/wor1810110025-n1.html
「慰安婦」映画後援 茅ケ崎市と市教委に抗議殺到
2018.10.11 18:14更新 、産経新聞

 16日に神奈川県茅ケ崎市の市民文化会館で予定されているドキュメンタリー映画「沈黙-立ち上がる慰安婦」(朴壽南(パク・スナム)監督)の上映会を市と市教育委員会が後援していることに対して、市と市教委に170件を超える抗議が殺到していることが11日、関係者への取材で分かった。

 市によると、6月1日に上映会の主催者側から後援名義の使用承認申請が出され、市と市教委は同映画が過去に一般上映された際のチラシの文面などをもとに協議し、後援を承認した。

 市と市教委は「内容ではなく上映行為に関しての後援であり、基本的に承認を出すのがスタンス」とし、映像を実際に見て協議するという方法はとらなかったとしている。

 同映画は、平成6年に来日して日本政府に謝罪と個人補償を求めて直接交渉を開始した女性たちの姿を、昭和10年生まれの在日朝鮮人2世で市在住の女性監督が追った作品。抗議の大半は、日本政府の見解と異なる政治的に偏った映画の上映を、中立・公平であるべき行政が後援することを問題視する内容という。

>16日に神奈川県茅ケ崎市の市民文化会館で予定されているドキュメンタリー映画「沈黙-立ち上がる慰安婦」(朴壽南(パク・スナム)監督)の上映会を市と市教育委員会が後援していることに対して、市と市教委に170件を超える抗議が殺到していることが11日、関係者への取材で分かった。

悪質なインチキ反日映画に茅ケ崎市と茅ケ崎市教育委員会が後援することなど、絶対に許されることではない!

ttp://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/
茅ヶ崎市のホームページ

茅ヶ崎市役所
電話:0467-82-1111(代表)

茅ヶ崎市長の服部信明は、平成8年(1996年)に旧民主党結党に参加したパヨクだった。

服部信明は、当該反日映画を後援した天罰なのか、平成30年(2018年)10月3日18時に茅ヶ崎市内の集会に出席し、その場で座り込んだことから茅ヶ崎市立病院に緊急搬送されたが、翌10月4日の朝に脳出血のため死亡した(57歳没)。
茅ヶ崎市長 服部 信明反日映画の上映会の後援をした天罰なのか、平成30年(2018年)10月3日18時に茅ヶ崎市内の集会に出席し、その場で座り込んだことから茅ヶ崎市立病院に緊急搬送されたが、翌10月4日の朝に脳出血の

http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/mayor/1031894.html
茅ヶ崎市ホームページ

茅ヶ崎市長 服部信明の死去について

平成30年10月4日(木曜日)8時48分、茅ヶ崎市長 服部 信明が死去しました。謹んでお知らせいたします。

10月16日に茅ヶ崎市が後援する上映会に先立ち、三重県の伊勢市で上映会があり、朝日新聞が当該反日ウソ映画の上映会の宣伝記事を掲載した!
朝日新聞・三重県版に掲載されました。監督の電話取材もされとても良い記事です。明日から3日間、進富座『沈黙−立ち上がる慰安婦』

http://www.asahi.com/area/event/detail/10319502.html
ドキュメンタリー映画「沈黙-立ち上がる慰安婦」伊勢市上映会
話題のドキュメンタリー映画3日限定上映

ドキュメンタリー映画「沈黙-立ち上がる慰安婦」伊勢市上映会
(c)2017朴壽南

「沈黙-立ち上がる慰安婦」(117分)を伊勢市で3日間限定上映する。映画は1990年代、日本政府に公式謝罪と個人補償を求めて直接交渉をはじめた韓国「慰安婦」被害者の会のハルモニ(おばあさん)たちの軌跡を描くドキュメンタリー。期間中には、在日コリアン2世の女性朴壽南(パク・スナム)監督のトークもあり ※トークの日時、詳細は事前に確認を

イベント会場: 伊勢進富座
期間:2018年10月06日(土) ~ 2018年10月08日(月)
.時間:15:45 ~ 17:45

ドキュメンタリー映画『沈黙-立ち上がる慰安婦』予告編
■動画
ドキュメンタリー映画『沈黙-立ち上がる慰安婦』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=ExQCH9c7BE4

上掲した【ドキュメンタリー映画『沈黙-立ち上がる慰安婦』予告編】や当該映画のポスターやパンフレットを見ただけで、いかに当該映画がインチキの出鱈目映画なのかが良く分かる。

上掲した当該映画のポスターやパンフレットや動画の予告編で前面に押し出されて大々的に(予告編の動画の0:18~、1:48~)登場するイ・オクソンという婆は、当初「自分は親に騙されて売り飛ばされ、その後に自分を拉致して慰安所に連れて行ったのは【朝鮮男 2人】だ」と証言していた。

沈黙 #立ち上がる慰安婦 #慰安婦 #韓国 #在日朝鮮人 #ハルモニ #イ・オクソン
反日ウソ映画『沈黙-立ち上がる慰安婦』の中心登場人物となった嘘吐き朝鮮人元売春婦の李玉善(イ・オクソン)

中国共産党の息の係った在米中国人から 多額の献金を受けるマイク・ホンダ議員と 意気投合する李玉善(イ・オクソン)さん
支那共産党の在米支那人団体から多額の献金を受けたマイク・ホンダ議員と意気投合する嘘吐き朝鮮人元売春婦の李玉善(イ・オクソン)

中国共産党の息の係った在米中国人から 多額の献金を受けるマイク・ホンダ議員と 意気投合する李玉善(イ・オクソン)さん
最近の李玉善(イ・オクソン)

▼李 玉善(イ・オクソン)の証言▼

李 玉善(イ・オクソン)は、1942年15歳のときに、延吉で「買い物に行く途中で【朝鮮男 2人】に捕まり、トラックの荷台に押し込まれた。」と証言していた。

http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-6515.html
■李玉善(イ・オクソン)の証言
■李玉善(イ・オクソン)の証言

(一部抜粋)

ナヌムの家に掲載されている韓国語による証言。

(中略)

少女、 李玉善は七歳の頃から勉強がしたくて毎日学校に通わせてくれお母さんにせがんだ。その時から勉強がしたくて泣いたが、そんな悲しみは十五歳まで続いた。

玉善が十五,弟(妹)たちがそれぞれ 7歳,5歳,4歳だったある日だ。

お母さんが静かに 玉善を呼んだ。

釜山津駅オドメでうどんを売る食堂があるのだけど,主人に娘がいなくて、養女を欲しがっているが、行くか?

そっちへ行けば学校に通わせてくれるんですか?

そう,そこはご飯も自由に食べることができるし,学校にも通わせてくれると言ってくれてる。

それでは行きます。

これで少女、玉善は食堂に養女に行った。

しかし学校に通わせてくれるという話は真っ赤な嘘だった。養女でもなかった。朝鮮の主人はあらゆる下動きはもちろん酔客の接待までさせた。玉善はお酒の接待を拒否して二回も逃げて、非道く殴られたりした。

それから、数ヶ月の内に、そこの主人は他の居酒屋に玉善を売ってしまった。その店は、芸者の置屋だった。ここでも玉善は夜 12時まで、あらゆる下動きをした。とても大変で、夜に布団の中で枕を濡らしたこともあった。

ここ来てから、まだ1年もならないうちに、満洲まで連れてこられた。
というのは、芸者の置屋さんでおつかいに出された時、白昼大道で拉致にあったのだ。
その時、 42年 7月,玉善は年十六(満15歳)だった。

白昼に強制拉致

午後におつかいに出たが、40歳を過ぎたように見える太っている朝鮮男 2人が手首をぱっと引っ張って、有無を言わさず、力ずくで私をトラックに押し込んだ。
(以下略)

李玉善(イ・オクソン)は拉致した男について当初「朝鮮男 2人」と証言していたが、後に「日本人と朝鮮人の男に捕まった」と証言を変えている。

監督の朴壽南(パク・スナム)は、かなり異常な反日マジキチだ!
在日同胞2世の朴壽南(パク・スナム)監督
在日朝鮮人2世のインチキ映画監督・朴壽南(パク・スナム)

『沈黙−立ち上がる慰安婦』公式サイト 監督 朴壽南 Park Soonam

http://nutigafu.wixsite.com/park-soonam
監督
朴壽南 Park Soonam

『沈黙−立ち上がる慰安婦』公式サイト

朴壽南 Park Soonam

朴壽南 (パク・スナム) 박수남
【プロフィール】監督のことば

1935年12月、三重県生まれ。移住した横浜で10歳の夏、日本の敗戦と祖国の解放を同時に迎える。

1948年、38度線を境界に独立した祖国に二つの国家が樹立。南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国。80万人にのぼる同胞社会も南北に分断されていく。皇国少女から朝鮮民族の子へ。しかし求めていた民族のアイデンティティは互いの存在を否認する南北の分断によって、引き裂かれていくのだ。「お前は南の者か、北の者か」。

朝鮮戦争からベトナム戦争へ-。そして58年、この私を衝撃したのは小松川女高生殺し事件である。

この事件は犯人自らの通報によって発覚、当時の世間を震撼させた。逮捕されたのは定時制高校の「金子鎮夫」、犯行当時18歳2カ月。日本名「金子鎮夫」と名乗っていた少年は朝鮮人李珍宇(イ・チヌ)としてセンショーナルにデッチあげられ、前人未到の殺人魔として断罪された。少年は22歳で絞首刑によって命を絶たれた。その死の一年前、私は同胞社会を二分していた北の朝鮮人総聯合会から「極悪非道な殺人魔は在外共和国の公民ではない、事件の関与から身を引くように」と宣告される。しかし私にとって李珍宇は私自身なのだ。これがきっかけとなって私は地上楽園の国、共和国から追放され反国家人物として否認されていく。北と連帯している日本の革新(進歩的)団体や党派、知識人、マスメデイアからもいっせいに排斥されていく。植民地支配の責任を認めない日本の国家、更に南北の国家からも遺棄・抹殺されてきたコリアン原爆被爆者、「従軍慰安婦」らの存在の回復は、これを阻む者達との壮絶な闘いであった。

​(2013年10月記)

>そして58年、この私を衝撃したのは小松川女高生殺し事件である。
>この事件は犯人自らの通報によって発覚、当時の世間を震撼させた。逮捕されたのは定時制高校の「金子鎮夫」、犯行当時18歳2カ月。日本名「金子鎮夫」と名乗っていた少年は朝鮮人李珍宇(イ・チヌ)としてセンショーナルにデッチあげられ、前人未到の殺人魔として断罪された。少年は22歳で絞首刑によって命を絶たれた。その死の一年前、私は同胞社会を二分していた北の朝鮮人総聯合会から「極悪非道な殺人魔は在外共和国の公民ではない、事件の関与から身を引くように」と宣告される。しかし私にとって李珍宇は私自身なのだ。

監督の朴壽南 (パク・スナム)は、当該反日ウソ映画『沈黙−立ち上がる慰安婦』の公式サイトのトップに「私にとって李珍宇は私自身なのだ」との記述を掲載するのだから、かなりの反日異常者と考えて間違いない!

昭和33年(1958年)、在日朝鮮人の李珍宇は、18歳の時、【強姦→殺害→屍姦】及び【強姦未遂→殺害→屍姦】の2件の超残虐殺人を犯した。(1962年に死刑執行)

それまで、少年法を無視して未成年者の犯人の実名&写真を報道していた新聞各社は、その後、実名報道を自粛するようになった。

この李珍宇について「私にとって李珍宇は私自身なのだ」と偉そうに公言する監督の朴壽南 (パク・スナム)は、かなり頭がおかしい!

小松川事件(小松川女子高生殺人事件)の犯人の李珍宇(1940年2月生まれ。犯行当時18歳)在日朝鮮人の李珍宇は、18歳の時、【強姦→殺害→屍姦】及び【強姦未遂→殺害→屍姦】の2件の殺人事件
小松川女子高生殺人事件(小松川事件)の犯人の李珍宇(1940年2月生まれ。犯行当時18歳)

▼李珍宇の犯罪の数々▼
李珍宇は、東京都亀戸出身の在日韓国人で、窃盗癖があり、2件の殺人事件(①強姦→殺害→死姦。②強姦未遂→殺害→死姦)の前にも、図書館からの大量の書籍の他、現金・自転車の窃盗を行い、家庭裁判所で保護観察処分を受けていた。

▼李珍宇「小松川事件」の前に行っていた第1の殺人事件▼
【強姦→殺害→屍姦】
昭和33年(1958年)4月20日午後7時15分頃、在日朝鮮人の李珍宇(18歳、通名:金子鎮字)は、銭湯から帰る途中、自宅近くの路上で、自転車に乗った田中せつ子さん(当時24歳)を発見。
李珍宇は、気になって田中せつ子さんの後を追いかけ、道路上で追いつき、道路脇の田んぼに押し倒して馬乗りになり、首を絞めた。
李珍宇は、田中せつ子さんが気を失うと姦淫したが、自分が遂げる前にせつ子さんが意識をもどしたので再び首を絞めて殺害した。
その後も、李珍宇は、死姦した。

李珍宇は、この4月の事件の経緯を「悪い奴」という小説に仕立て、読売新聞社の懸賞に応募していたことが後に判明した。
この小説は、首を絞める場面など、事件の詳細な状況(被害者を男子同級生に変えてはいたが)だけでなく、自身に向けられていた民族差別についても記されており、私小説といえるものだった。

▼李珍宇が行った第2の殺人事件「小松川事件」▼
【強姦未遂→殺害→屍姦】
昭和33年(1958年)8月17日、日曜日に暇を持て余していた在日朝鮮人の李珍宇(18歳、通名:金子鎮字)は、午後4時頃に自転車で高校に出かけた。
李珍宇は、高校の屋上に昇った。
屋上の水槽手前では、太田芳江さん(16歳)が石の上に座って本を読んでいた。
李珍宇は、太田芳江さんのことは知らなかったが、屋上をうろうろしているうちに、「この娘と関係を持ちたい」と思った。
李珍宇が太田芳江さんの傍で「やろうか、やるまいか」とうろうろしているうちに、太田芳江さんは不審に思って立ちあがった。
すると、李珍宇はポケットからナイフを出し、太田芳江さんの腕を引っ張って、時計台の方へ連れて行った。
太田芳江さんが大声を出して嫌がったため、李珍宇は芳江さんを押し倒し両手で首を絞めて殺害した。
その後、李珍宇は、屍姦した。
そして、李珍宇は、芳江さんの遺体を屋上の鉄管溝(横穴)の方まで引きずって行き、その中に隠した。

李珍宇は、もみ合った際に、自分のナイフで指を切ったので、これを目撃されないように暗くなるのを待って立ち去った。
また、李珍宇は、自分の指紋が付着していたので芳江さんの所持品を奪った。

逮捕された時、押収された李珍宇の日記には次のように書かれていた。
「屋上から見える空。雲も月も星も全部が注視している。見よ!この偉大なる力。すばらしい勝利。輝くひとみ。赤い顔」

同月20日に、李珍宇は、読売新聞社に太田芳江さんの殺害と、その遺体遺棄現場を知らせる犯行声明とも取れる電話をした。
警視庁小松川警察署の捜査員が付近を探すが見あたらず、イタズラ電話として処理される。
翌21日、小松川署に、更に詳しく遺体遺棄現場を知らせる電話が来る。
捜査員が調べたところ、同高校の屋上で被害者の腐乱死体を発見した。

その後、李珍宇は、被害者宅や警察に遺品の櫛や手鏡を郵送した。
更に読売新聞社へは反響を楽しむかのように30分にも及ぶ電話をかけ、警察はその逆探知に成功した。
電話をかけてきた公衆電話ボックスには間に合わず、身柄は確保できなかったが、そこで電話をかけていた男の目撃証言は得られた。
この時の通話は録音され、8月29日にはラジオで犯人の声が全国に放送された。
「声が似ている」という多くの情報が寄せられ、その中から有力な容疑者が浮かび上がった。
劇場型犯罪ともいえる展開であった。
女子高校生が殺されていた小松川高校の屋上 1958年8月 東京・江戸川区
女子高校生が殺されていた小松川高校の屋上 1958年8月 東京・江戸川区

▼裁判▼
李珍宇は、1940年2月生まれで犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月27日に東京地裁で死刑が宣告された。
二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定した。

翌1962年8月には東京拘置所から宮城刑務所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかった)され、11月26日午前10時に死刑が執行された。
享年22。

李珍宇は、 獄中でカソリックに帰依し宗教書を熱心に読んだ。
『私は”鎮宇”として生きるよりも、「チヌ」(ハングル)として死ぬ自分を誇りに思う。…姉さん、朝鮮語を勉強するための本を何か送ってください。』

●詳細記事
実名報道自粛は李珍宇の2件の「殺害→死姦」の後・小松川事件・1960年代まで新聞も実名&写真
http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-5769.html

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Source: 正しい歴史認識・国益重視外交・核武装実現

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